今日の画像は『奥穂高への道603 奥穂高下山・横尾~上高地』、史上初日本代表監督を8年連続で務める『広島出身の森保一監督』、『司馬遼太郎ベスト10』、90歳にして矍鑠として現役で活躍する『香川京子さん』。そして、私の今年の初とトレッキング、1月3日に歩いた、『己斐峠~大茶臼山~丸山~石山~権現峠~春日台団地』、の大茶臼山への登山口の画像です。登山口は、己斐から五月丘団地へのバイパスが建設されたことで山が掘り下げられて、登山道は直に鉄階段を60mばかし登らなければなりません。でも、階段のトップから見る市内やすぐそばの『国泰寺の景観』が心を沸き立たせてくれます。

司馬遼太郎の『ベスト10』に、私の愛読書『新史 太閤記』が入っていないのが残念です。ちょっと通読的すぎるのでしょうかしら。でも、司馬節はたっぷり入っていて、それなりにエスプリも利いていますがねえ。まあ、もう一つの愛読書『花神』が5位に入っているから、良しとするかねえ。

★国泰寺の建立は、1594年、『安国寺恵瓊』により広島の中心地区に開基され『安国寺』と命名されました。現在ANAホテルがある付近です。その後、福島正則の統治下1602年に『国泰寺』と改名されています。そして、新藩主浅野家の菩提寺を長く務めました。1978年、市の中心部から柚木城山北端の己斐峠に移設されました。なかなかの名刹ではあります。安国寺恵瓊は、戦国の世毛利藩の外交官として活躍しました。秀吉の高松城攻めでは、毛利を代表して、休戦協定の交渉にも当たりました。

★★昨日の大相撲13日目、十両12枚目の朝乃山は1敗同士、5枚目11勝1敗の金峰山と対戦。朝乃山が勝負を制し、突き落としで白星を挙げて12勝1敗と星を伸ばしました。あと2日、白星を重ねると14勝、堂々の幕内返り咲きです。大関陣に陥落者が続き、1人大関貴景勝も万全でない中、大相撲の盛り上げに大いに貢献する朝乃山ではあります

    <資材運搬路 一般車・人は入れない>




































 

       <駐車違反摘発>

 

 

■■■2022年カタールW杯は、森保ジャパンはベスト8戦で、惜しくもPK負けはしたものの、リーグ戦で欧州強豪のドイツ、スペイン戦を勝ち抜き、ベスト16に進む快挙を挙げた。その監督森保一は、2018年7月に五輪監督を兼務のまま、日本代表の監督に就任。そして2022年11月、W杯一次リーグで、ニカラグアに惜敗したもの、欧州の雄ドイツ、スペインを下し、決勝トーナメントベスト16に進出。改めてその手腕が世界中で高く評価された。実は、森保一の監督職への就任は、2012年のサンフレッチェ監督就任からひもとかれる。サンフレ監督在職5年のうち、3回も優勝するという快挙を挙げた。その延長線上に日本代表監督就任があった。その、サンフレッチェで森保新監督を生んだ物語をアップする。

■■優勝争いを振り返ってみると、その激しさが増すに従い、選手達のプレーに硬さが出てきた。これは、タイトル獲得を果たす過程における『産みの苦しみ』なので、仕方がない現象と言えるだろう。

載冠を決めたセレッソ大阪戦の2日前に、『自分達らしさを出せないくらいだったら、優勝なんかしなくてもいい』といった趣旨のことを選手達に話した。これが彼らの胸にどのように響いたのか分からないが、結果として『自分達らしさ』を取り戻すことが出来、みんながのどから手が出るほどほしかった勝利へとつながった。

貴重な追加点となった2点目が、本来の積極性を特に象徴するシーンであった。左サイドのMF清水航平がクロスボール、右サイドのMF石川大徳がダイビングヘッドで折り返し、これをボランチの青山敏弘がねじ込んだ。

どちらか一方のアウトサイドが前に出ていったら、逆のアウトサイドはバランスを取って自制気味にプレーするのがセオリーとされるが、あの場面では清水と石川の両サイドがともに最前線附近まで顔を出し、しかも最後はボランチの青山が得点を決めた。2列目どころか3列目の選手達が3人も、アグレッシブにゴール近くまで進出していったのだ。

原則を打ち破ってのサンフレッチェらしい積極性が、得点となって実を結んだ。ほかのチームではなかなか見られないゴールパターンだったと、少々自慢したい。選手達の勇気を讃えるとともに、監督はこうしたアグレッシブさを引き出てやらなければいけないのだと、あらためて痛感させられるシーンでもあった。

加えて、このセレッソ戦ではチームとしてシーズンベストといっていい出来を披露出来たと胸を張れる。そうした良質のパフォーマンスを集大成となるホーム最終戦でお見せするに至れたのは、本当にうれしいことだった。

優勝した直後は取材対応に追われた。しかも、すぐ次の試合の準備に入る必要もあったから、優勝の実感をかみしめることがなかなか出来なかった。そんなバタバタを経て少し平穏になった2、3日後にふと思ったのは、優勝するための魔法はない、近道もないということ。こうすれば簡単に優勝出来るという、明確な方程式など存在しない。ボクとしては、これからも全力疾走で突き進んでいくしかないだろう。

まだまだ未熟であり、立ち止まることは許されない。自分が考えるサッカーを選手達にもっと的確に伝えるようにしたい。そのためには彼らが理解しやすいような、より効果的な言葉の使い方を習得しなければいけない。また、技術戦術面の大切な要素を選手達がよりスムーズに吸収出来るようなトレーニングメニューを構築したい。ベースとなる部分は変えないのだが、バリエーションを増やしたりしながら、練習内容をすこしずつ改善していく必要はあると認識している。

山の頂上へたどり着くためには、一歩ずつ進んでいくしかない。言葉では簡単だが、やめずに継続するのは本当に難しく、努力を続けるのは能力の一つである。

まずは現状をしっかり把握し、自分が今後どう進んでいくべきかについて思いを巡らせることから始めてはどうか。本気で考えることが、前へと進む力になるだろう。次への扉を開くカギになるだろう。

選手達とスタッフ、サポーター、そして貴重なアドバイスをボクにくれる大切な何人かの人達、さらには家族に対し、今一度感謝の意を表して締めくくりとしたい。(2012年12月 森保一)

『森保一』: 1968年8ガツ23日生まれ。長崎県出身。長崎日大高校を卒業後、マツダサッカークラブ(現サンフレッチェ)に入団。ディフェンシブハーフとして活躍した。93年のJリーグ開幕後もサンフレッチェの中盤を支え、94年のサントリーシリーズ、1stステージ優勝に大きく貢献した。日本代表としては、92年の初選出以降、国際Aマッチ35試合に出場。93年にはアメリカ・ワールドカップのアジア最終予選で『ドーハの悲劇』を経験した。

98年、京都パープルサンガに移籍したが、1シーズンだけでサンフレッチェに復帰。2002年にはベガルタ仙台に移籍し、翌シーズン終了後に17年間にわたった現役生活にピリオドを打った。引退後はサンフレッチェで指導者の道に入り、まずは育成普及巡回コーチを務めた。05年から07年までは日本サッカー協会ナショナルコーチングスタッフの一員としてユース年代の代表チームの指導に当たり、07年にはU-20ワールドカップにコーチで参加した。

07年8月からサンフレッチェのトップチームコーチとなり、その後10年にアルビレックス新潟のヘッドコーチに就任した。12年からサンフレッチェのプロチーム監督。1年目にして早くもチームをJリーグ優勝に導き、Jリーグ最優秀監督賞を受賞した。元Jリーガーが監督としてJ1リーグ優勝を遂げたのは、史上初の快挙だった。


■■<大型フェリー相次いで就航 『物流、観光で時流乗る』>商船三井グループの『フェリーさんふらわあ』(大分)は、日本初のLNGフェリー『さんふらわあ くれない』を大阪~別府航路に就航させた。4月には同型の『むらさき』も投入する。運転手不足や環境対策で進むトラックから船へのモーダルシフトに対応すると共に、ポストコロナの旅行需要もにらむ。

『さんふらわあ くれない』は、航行中は主にLNGを使い、CO2の排出量を従来船より25%削減。硫黄酸化物はほぼ排出しない。旅客面では最上階の8階にクルーズ船並みのバルコニーを備えたスイート専用フロアを設けた。新型コロナ禍も考慮して、雑魚寝の大部屋は廃止。展望浴場は従来の2倍に拡充し、レストランは瀬戸内海ビュッフェとして地元の食材を使う。

フェリーさんふらわあの赤坂社長は『コロナ禍で団体旅行は小グループの旅行に移行しており、家族や友人のきずなを回復する旅行に利用してほしい』と語る。

貨物面ではモーダルシフトを意識し、貨物スペースを従来船の1.5倍に拡大。運転手も個室でゆっくり休める。トラック運転手の時間外労働規制が強化されて運転手が不足する『2024年問題』を前に、荷主や運送会社は対策を急いでいる。半導体メーカーの東京エレクトロンは今月、従来はトラックで陸送していた熊本県合志工場から関東方面への機械類輸送をフェリーさんふらわあの別府~大阪航路に切り替えた。

フェリー業界では新造船が相次いでいる。長距離フェリーでは、大阪~新門司港を結ぶ名門『太平洋フェリー』(大阪)が従来船よりトラック積載台数を5割以上高めた新造船を21年末以降に2隻就航させた。『宮崎カーフェリー』も22年、宮崎~神戸航路にトラック積載能力を25%高めた新造船を2隻投入した。

21年に横須賀港と新門司港を結ぶ新航路を開設したのは『東京九州フェリー』(北九州)。新造船はトラック・鉄道輸送に匹敵する21時間で首都圏と九州を結び、『海の高速道路』とアピールする。

流通科学大の森教授は『コロナ禍以前から燃料価格の低下で業績が回復した各社が老朽船の置き換えに入り、モーダルシフトへの対応がその動きを加速させた』と語る。

今後もフェリーの貨物輸送は増加する見込みだ。24年問題に未対応の荷主や中小運送業者にも切実な課題になる。加えて、フェリー増強の動きに、地域の企業や地方自治体も物流網や観光客誘致の新しい方策を考えるべき時期を迎えている。

◆トラック運転手の長時間労働を改善し、交通事故防止を図る2024年規制が目前だ。規制自体はいいことなのだが、物流自体に影響を及ぼすと、社会問題化する。しっかりとフェリーなどの対応を図って、スムーズな規制クリアをしてほしいねえ。


■■<スーパー大型出店 『広島デルタの陣』>広島市中心部に広がる太田川デルタ。その三角州内の中区と西区で2023年、食品スーパーやディスカウント店、ドラッグストアなどの大型小売店の開業が相次ぐ。店舗の運営コストが上がる中、古くからの市街地で小売店の業態を超えた競争が激しくなりそうだ。

24時間スーパーの『ハローズ』(福山)は2月、西区観音新町に出店する。店舗の建設が進んでロゴ入りの看板ができ、従業員の募集も始めた。1.8キロ西で21年4月にオープンした草津新町店に続く市内2店目。デルタ内では初めてで、相次ぐ広島県西部への出店戦略の一環となる。

ハローズの新店予定地の400m南西では、自動車用品販売のオートバックスセブン(東京)が、スーパーオートバックス広島観音新町店の出店を計画する。大規模小売店舗立地法に基づく22年12月の届け出によると、新設時期は23年夏。ただ開業については『計画に変更が出る場合もあり、回答は差し控える』とする。

西区福島町の市中央卸売市場食肉市場の跡地では、23年夏にディスカウントストアの『ダイレックス』(佐賀)がオープンする。賃貸住宅管理の良和ハウスなどの企業グループが開発する『ザ・リヨウワ・トリニティタウン』の商業棟に入る。賃貸マンションや有料老人ホームも開設する。

ドラッグストアの『コスモス薬品』(福岡)は広島市中区吉島新町に出店する。22年11月に市に提出した出店計画によると、23年秋の開店を予定。市内には5店を構えているが、現在はデルタ内にはない。コスモスの22年5月期の売上高7,554億円のうち一般食品の比率は58%で、スーパーとの競争環境も強まる。

◆いろいろ花盛りなり、広島デルタではあるなあ。以前にも書いたが、あの『ハローズ』は、2000年以降、福山市の商圏から、岡山県倉敷、岡山地区に進出した。岡山県では、高松が本拠の『マルナカ』を攻撃して、商圏拡大に成功。香川・愛媛・兵庫県にまで進出している。おそるべきハローズではあるなあ。広島のス―パーもおちおちしてはおられないだろうねえ。一般的に広島のス―パーは値段が高いと感じる。この点をハローズはどう打ち出すか、だねえ。興味があるねえ。


■■<香川京子さん(90) 座右の銘『無理をしない』>俳優一筋、70年以上。今も出演依頼が来る。出演作は映画だけで137本だ。それでも『ただ普通に仕事をしてきただけ』と控え目にほほ笑む。『凛』という言葉が似合う人。その自然なたたずまいに、現役を続ける凄みが漂う。

――今年で74年目ですね。
『そうですってね。普段から年齢のことは考えないので、なんでそんなに時間がたっちゃったのかしらと思っています。私の仕事には定年がないですから、一つひとつの仕事を一生懸命やってきただけですね。そういう感じなんです』

――英国の映画誌で『映画監督が選ぶベスト映画』の第1位に選ばれた小津安二郎監督の『東京物語』(1953)など、多くの巨匠の作品に出ています。
『それは映画会社から独立して20代にフリーになったからなでんす。私は縛られるのが嫌いで、出る作品を選べる立場になりたかった。生意気ですね。小津監督とは「東京物語」だけでしたが、現場では直接メークをしてくださる場面もありました。でも、私は義理の姉役の原節子さんとご一緒出来ることの方がうれしくて。憧れの存在でしたから』
『溝口建二監督には鍛えられました。相手の動きや言葉に合わせて初めて自分の演技が決まる。黙っていても反応する演技が大事なんだと。黒澤明監督の「天国と地獄」(63)の冒頭に長い時間セリフがなく緊迫した演技をするシーンがあります。溝口さんのお陰で黒澤組も勤まったと思います』

――今年公開された『島守の塔』では沖縄戦を着抜いた女性を演じました。
『「ひめゆりの塔」(53)にも出ましたが、まだ本土復帰前だったので実は沖縄ではロケしていないんです。ところが、映画に出たご縁で、ひめゆり学徒隊の生き残りの方々と長く交流するようになりました』
『私自身は茨城県に疎開していたので申し訳ないくらい無事でした。映画を通じて戦争を追体験することが多く、「ひめゆりたちの祈り」という本も書きました。今回のお話をいただいた時、「私がやらなければ」という使命感でお引き受けしました。70年ぶりに沖縄戦を演じる、本当に不思議なめぐり合わせです』

――健康の秘訣は何ですか。
『何でもないんです。胃腸が弱いので、お酒も飲めないし、小食です。体形はずっと変わりません。ただ、規則正しい生活はしています。あとは「無理をしない」こと。人のせいにするのが嫌いなんです。うまくいかなくても自分で決めれば、自分がダメだと納得できます』
『50代の時に老け役をやって、すごく楽になった。きれいにしなきゃという肩の力が抜けて無理なく演技ができました。うれしかった。過去があって今を生きている。その積み重ねた年齢を演じています。生涯現役と気負うこともなく、最期の準備もせず、これからも自然に生きていきます』

◆大女優香川京子さんは、文中にあるように、戦時中茨城県に疎開しておられた。その疎開中の香川さんを、あの巨匠、西条八十さんも同じ地に疎開しておられて、ばったりと香川さんに出会ったことを記憶しておられる。いにしえの縁ではある。

――軍部は『非常時なのだから、楽しかった昔のことなど夢だと思って、今は戦い抜くのだ』と解釈するだろうが、八十は『昔の夢が懐かしいですねえ。早く昔のような平和な時代が来て欲しいものだ』という思いを込めたつもりだった。久し振りに納得のいく詩が書けたので、上機嫌で下館駅に近い文房具店へ出かけた。すると、16、7の乙女が店に入ってきた。端正な顔立ちで、田舎町ではめったにお目にかかれない鄙ヒナには希な美少女である。お定まりのモンペ姿に、胸には名前、住所、血液型を記した白い布が縫いつけてある。『池辺香子』という名前を記憶に留めた。

それからしばらくして、新東宝宣伝部の永島一朗が西条家にやって来た。下館に疎開中の親類を訪ねた帰りだと言う。『ついこの間、この町で映画女優にしたいような美しい少女を見たよ』『名前は分かりますか』『確か、池辺香子と名札に書いてあった。香る子と書く』『それは私の姪ですよ』、永島に言われて驚いた。『西条先生にお褒めいただいたと聞いたら、香子も喜ぶでしょう。家は近くですから、遊びに来させてもいいですか』。池辺は早速香子を連れてきた。それがきっかけで、香子と母親が西条家に出入りするようになり、晴子は香子を娘のように可愛がった。八十の目に狂いはなく、この美少女は戦後『香川京子』として、一流の女優になった。


■■<浅野拓磨、ついにパルチザン退団が『正当』」と認められる>2021年4月にセルビア1部のパルチザン・ベオグラードを退団することになった浅野拓磨。ピッチ上では活躍していたものの、クラブからの給与などが滞っていたこと、契約の内容が守られていなかったことを訴えて一方的に退団を宣言し、移籍を行った。

そして、それを不服としたパルチザン・ベオグラードがFIFAへと訴えていたものの、その調査の結果は浅野拓磨側の主張を認めるものだった。

浅野拓磨側は退団の数ヶ月前から契約解除を示唆する通知をクラブ側に送っており、パルチザン・ベオグラードは契約の内容と異なる対応をしていたと認められた。

そしてパルチザン・ベオグラード側は未払いの給与45万3281ユーロ(およそ6200万円)と5%の利息を支払うように命じられていた。ただ、パルチザン・ベオグラードはこれを不服としてスイスのスポーツ仲裁裁判所に上訴を行い、法廷闘争が行われてきた。

そして『DANAS』の報道によれば、今回スポーツ仲裁裁判所がこの事件に関しての判決を下したとのこと。その結果はやはり浅野拓磨側の主張を認めるというもので、FIFAが下したパルチザン・ベオグラードへの罰則も支持するものだったそう。

◆良かったねえ、拓磨の対談疑惑は晴れて。スポーツマン拓磨は、嘘はつきません、だねえ。これからも頑張ってほしい拓磨ではある。