日本航空がまだまだ、海の物とも山の物ともわからなかった昭和30年代。
旅客部門が花形の日本航空で、貨物部門へ飛び込み、カナダからマグロの空輸に成功した男がいます。『岡崎彬さん』。
戦後のめまぐるしく変わる世界の政治経済情勢の中で、多忙なビジネスマン、政治家は航空機を利用せざるを得なくなりました。
が、航空貨物はどうも前途がなさそうに見えました。料金が高い、が一番の難関。現実に初期の航空貨物は、小さな商品サンプルが大半を占めていました。
そして当時は機体が上限に揺れる、また振動の激しいプロペラ機。貨物輸送の安全性など認められない時代でした。
しかし岡崎彬という人は不思議な人で、父親が全日空社長でもあるにかかわらず、日本航空に入社、そして自ら志望して航空貨物部門へ進みます。
なによりも海上運賃の5倍もかかる航空運賃を吸収できる商品があるか、とうのが大きな課題です。
食料、肉類、など思いを巡らせていると、魚介類が最後に残ります。
その中でも最も値のはる『マグロ』が適格、だと岡崎さんは結論を出します。
岡崎さんは、マグロのイロハを習得するため、会社に休暇をとって焼津からマグロ漁船に乗り込み10日あまり、金華山沖での操業を見せてもらいます。
マグロには『身割れ』という障害があると言われますが、現場をみるかぎりそうそう雑にあつかっても大丈夫、という確認もします。
岡崎さんはあるていどいけると感じ、世界各地の漁業省や水産庁に『貴国にマグロありや』の問い合わせの手紙を出します。返事は40通くらい来ましたが、その中で岡崎さんが興味を示したのが、カナダです。
カナダでは、陸地寸前までマグロが遊泳し、しかもマグロはスポーツフィッシングの対象で、食用ではありません。国内業者と現地の漁業者との難関である調整をすませ、カナダのマグロも日本の消費者に耐えうることを証明します。そしてJALで運べば品質問題も解決する、と。
カナダでは、釣ったマグロにお金を出して処分・埋立してもらっていなのが、いくばくかの価値を生むのですから、反対もなにもありません。
問題は流通段階にあり、どのようにして運べば鮮度が保て、市場で値がつくか、という難関です。
紆余曲折あって、マグロにウレタンを吹き付けると言う方法で、腐食と身焼けを防止し、捕獲後10日目でも商品として評価される成果をあげます。
そして輸送用の保冷庫もできあがり、現地ではゴーマンという漁師の親分がまとめ役となり、カナダから空輸でマグロが輸入されるようになりました。ゴーマンはこのビジネスで御殿を建てたそうです。
その後、岡崎さんは航空貨物の流通革命に寄与し欧州地区貨物統括駐在員、シカゴ支店長などを歴任。
丁度その時、御巣鷹山に日航機が墜落するという事故があり、岡崎さんはシカゴから山へ直行します。そして遺体の収容、遺族の対応など、実に事故後4年を山中で過ごし、定年がきて、初めて庵を出て山をおりました。
当時カネボウ社長の伊藤淳二さんが、日本航空の会長に就任。
岡崎さんに言わせると、日本航空最大の問題児、小倉貫太郎さんをいきなり会長室部長に抜擢するなど、奇行が目立ち『本社の新会長は、俺と同年の、しかし共産党系の労働運動ばかりしていた男を会長室部長に取り立てたりして奇行の限りをつくしている、という噂がもっぱらだった。そんな東京に俺は帰らん。俺はこの山上でできる限り遺族の世話をし、霊の足音を聞き続けて定年を迎える』と語っていたそうです。
その後日本航空の労務問題は、経営の根幹を揺さぶるほどの大きな内部痕跡を残すことになります。
そして伊藤淳二さんがカネボウですすめた『ペンタゴン経営(多角経営)』も破綻をきたし、化粧品部門だけが『カネボウ』のブランドを引き継ぎ、残りの事業はすべて譲渡されるか、事業解消になりました。
日本航空の歴史もいろいろあるものです。
侍岡崎さんもその一つであり、また岡崎さんを登場させた『決断は我にあり』を書いた深田祐介さんも侍ではあります。
★昨夜、幟町の『生粉キコ手打ちそば・結喜庵ユウキアン』というお店で、福島県のそば粉をつかった『そば』をいただきました。ビックリ。これがそばか、と。腰があり透明感が光ります。まるで秋田の稲庭うどんを想像されるようなそばでした。
おそば好きの人には一度このお店のそばをお勧めします。
(中区幟町8-15 平岩ビル1F)
今日の画像は、『京都・八坂神社の参拝客に節分の豆まきをする舞妓さん』と、マクロレンズで撮った黄金山すそのの『水仙2』です。
ラッパ水仙の変形花のようです。
とてもすがすがしさを感じさせます。(^-^)