三宝帰依についてはもう皆さん充分その意味を理解しご存知かと思います。


ブッタに帰依する。


法に帰依する。


僧伽に帰依する。


このブッタは勿論信次先生ですね。信次先生亡き後の乱立した先生方ではありませんよね。

なぜなら2番目の法に帰依する。の法は信次先生が説かれた法ですから。他の方が自分の考えや意識を加えてこれが信次先生の説かれた正法です、と言われるものではないでしょう。


ある教団ではブッタの再来は自分だと名乗っておられる方もおられますが。そのようなことは先ず問題外としてて。GLA或いは信次先生に学びましたと名乗っておられる中に自分が先生と呼ばれろことを望んでおられる方々。ブッタではありませんよね。


観音寺の村上和尚さんは私達によく


「先生とは信次先生のことで私共は先生と呼ばれることはあまり居心地の良いものじゃありません。

まあー まず先に生まれた。 先生と呼ばれるほどの馬鹿じゃなし。」


等と冗談を言われておられました。


「先生と呼ばれたがる人々は。医者。学校の教師。政治家。いろいろおられますが、あまりなりたがりの中にはいい人はいませんね。国会議員や総理大臣などといっても、次元はここに集まってる正法を目指してるあなた方のほうが上ですよ。政治家は争いばかりしているアシュラ界の次元ですから」


「正法を自覚している方々は神界の魂ですからね。」


いろいろな方が信次先生の書かれた書物や講演で語られた内容をそのままネットなどに書かれているのを拝見しますが。それをみてインドの当時ブッタのお弟子さん方がブッタ亡き後に私はこう聞きました。と言い伝えたものが途中いろいろ変化して今の経典になってしまっている。

その経典は光も無く人を救うことができる力を失い。僧侶は何も分からなくなりはて、迷妄の世界を作ってしまった。

そんな中に信次先生が神理を説かれたのは本当の救いだと思います。

しかし2度と信次先生の教えをお経にしてはいけないとおもいます。

だから正法を実践して自分の心で咀嚼して自分の日々の経験を通して自分の言葉で語り伝えるべきだと思います。

もしそれが出来ないならば、正法を語るべきでは無い。指導者然とすべきでない。

確かに書かれている方の意識が入った文章は 諸法無我 という見方からすると問題があるでしよう。

正法を語るには大きな責任を伴ないます。だからこそ自分に厳しく間違いの無いように自問自答しながらが必要だと思っています。


皆さんは 他灯明 自灯明  ということを聞かれたことがあると思いますが。神の光は全ての人々の意識に繋がって光を頂いておられます。その証拠に貴方方は生きてるじゃありませんか。

その光は貰うばかりでなく自分から廻りの人々に与えれる人間になったとき。 自灯明 というのです。


たとえパソコンやネットで書き込みされた文章でもそれを書いた人の意識レベルが文章に現れ愛と慈悲に満ちた心で伝えられた言葉はその文章や言葉を見聞きした人の心に伝わり安らぎを与えることができるのです。

決して綺麗な上手な上手い文章じゃないんです。


最初に観音寺に伺ったときに和尚さんと朝食のあとのお茶を戴きながら話していただいたことを思いだします。


「頭の良い人は正法をやるには難しい。コンピューターも良くないですね」


私はその時は何もわからず心の中で そんなこと無い頭は良いほうがいい。コンピューターはこれからもっと必要だし便利だと。 でも和尚さんに其の思いを言うことは出来ませんでした。

正法の実践と反省を曲がり成りにもしていくうちにその意味が分かりました。でもそのことで和尚さんとお話することはなく。当然のことであり話題になるようなことではなく時間が過ぎて。和尚さんは亡くなられました。