しま:さて、“開元の治”と称される唐の第6代玄宗皇帝(=李隆基)の治世を支えた2つの政策を見てみよう!

 

1.募兵制の実施

それまでの府兵制は、均田制・租庸調制と三位一体になっていましたが、「税金も納めて時には兵隊にも行く」というのは、負担感が大きすぎた。中には土地を捨てて山へ逃げ込んだり、裕福な家へ転がり込んだりするものが出てきました。そうすると税収入は減り農地も荒れ放題。当然、兵士も居なくなる…。そこで玄宗は、お金で兵隊を雇う募兵制を実施しました。

 

2.節度使の設置

辺境防備のための軍、およびその指揮官のこと。最初は10か所に設置されました。

 

生徒:良い感じですね!

 

しま:玄宗時代の751年、世界史上とても意味のある戦いがおこりました!アッバース朝軍とのタラス河畔の戦いです。唐は高仙芝が軍隊を率いましたが敗北、捕虜として連行されるものも多く居ました。

 

生徒:どうしてそれが意味があるんですか??

 

しま:捕虜の中に紙すき職人が居たんです。それで、イスラーム世界にはじめて製紙法が伝播するんです!

 

生徒:なるほど!751年タラス河畔の戦いで製紙法が伝播ですか!しっかり覚えておきます!

 

しま:玄宗の話に戻すけど、皇帝の仕事って真面目にやるとかなりしんどい。宮廷での政務は夜明け前に始まって、次から次へと官僚が持ってくる書類に目を通して決裁していく。一番偉いんだから手を抜こうと思えばいくらでも抜けるけど、そうすると宦官や外戚などが勝手な振る舞いをするようになるから…一生懸命やるしか無い!

 

生徒:大変ですね…。皇帝って定年はないんですか?

 

しま:無い!玄宗はまじめに仕事をやり続け…いつの間にか即位30年を越えていた。すると政治に対する情熱も失われていく。かわりに彼は、ある女性へ情熱を向けるようになっていくのです…。

 

生徒:また女性ですか!唐の皇帝たちはなんなんだまったく!

 

しま:玄宗が惚れたのは、楊貴妃という人。もともとは玄宗の息子の恋人でしたが、そんなのおかまいなしで、後宮に入れてしまいます。簡単にいえば息子から嫁候補を奪ったんですよ。まぁ、いずれにせよ玄宗と楊貴妃の世紀の愛のはじまりはじまり~です。

 

生徒:ロマンチック…じゃないか。あれ?…でも、けっこう年離れてません?

 

しま:2人が出会った時、楊貴妃は27歳、玄宗は61歳でした。34歳差です。

 

生徒:わおー!恋愛に年の差なんてなんとやらってやつですね!

 

しま:さてさて、玄宗は夜が明けても宮廷に出てこなくなります。お昼までずーっと楊貴妃とイチャイチャしてるんですよ!長安の近郊に華清池(かせいち)という温泉地があるんですが、2人はよくそこに遊びに行ったそうで、今でも有名な観光地になっている。ってわけで、出世したければ楊貴妃に取り入ればよい、そんなムードが漂ってきます。で、玄宗は楊貴妃のはとこである楊国忠を宰相に任命するんです。これには、他の有力者は納得いきませんよ。そしてとうとう玄宗の晩年、唐を揺るがす大反乱が勃発します。

 

生徒:大反乱だと!?

 

しま:755年、安史の乱勃発。反乱軍のリーダーがイラン系ソグド人の安禄山(あんろくざん)と史思明(ししめい)だったから、2人の名前の頭文字をとって安史の乱。わかりやすいですね!

 



生徒:安禄山ってなにものですか?

 しま:彼は河東節度使など北方の3つの節度使を兼任するほどの有力者でした。体重は200kgで特技はダンスです。反乱をおこした理由は、宰相として常に皇帝のそばにいる楊国忠に不満だったから。自分は辺境の番人ですからね。さっきも書いたけど楊国忠は楊貴妃のはとこ。玄宗皇帝の個人的な理由での人材登用のツケがまわってきた…そう思ってください。

 生徒:なるほど…で、玄宗と楊貴妃はどうなっちゃうんです!?

しま:玄宗は楊貴妃を連れて長安から逃げた!しかしその途中、彼らを護衛するはずの親衛隊が反抗し始めるのです。…「安禄山の反乱は、楊貴妃のせいだ」と。結局玄宗は、田舎のまちのお寺に楊貴妃を連れ込んで、部下に処刑させるのです。玄宗と楊貴妃の恋愛物語のクライマックスです。このあと玄宗は退位して、息子の肅宗(しゅくそう)が即位しました。

 


 

生徒:愛する人を失った玄宗の悲しみは、想像もつきません…。

しま:ちなみにこの時、安史の乱を鎮圧するためにウイグル人に援助を要請しました。なんでウイグルかって?「安心しな?俺らは仲間さ、Weグル!」ってことです!

生徒:よくわかんないですけど、唐の政府がぼろぼろなのはわかりました。

しま:国内が荒れている中、763年、長安は一時的に吐蕃によって占領されています。

生徒:もう無理やん。

 しま:反乱の鎮圧後、都はすっかり荒れ野原…。唐の詩人の杜甫(とほ)の「春望(しゅんぼう)」という詩をここで紹介しておきましょう。

国破れて 山河あり
城春にして 草木深し

生徒:戦乱で荒れ果てた長安の風景を嘆いている詩ですね。

しま:さて、安史の乱の後、唐の政治と社会は大きく変質します。政治は、中央政府の統制力が低下したことにより有力節度使が民政や財政を握って自立化を始める!これを“藩鎮”という。

生徒:軍・民・財を牛耳っているのが藩鎮というわけですね!

しま:その通り!続いて社会だけど…土地は荒れ放題なので、均田制を維持することができません。均田農民は没落し、小作農になっている。この小作農のことを佃戸(でんこ)という。で、均田制が崩壊すれば、セットで機能していた租庸調制も当然崩れる。かわりに実施された税制が両税法。これ重要!

生徒:両税法とは!?

しま:現住地に対して、財産に応じて夏と秋の2回、銭納で集めます。一年に2回だから両税法!780年、徳宗という皇帝の時代に楊炎(ようえん)という宰相の提案で始まりました!政府は、これ以外にも塩の専売制を強化して、国家財政の充実をはかっています!

生徒:武帝みたいなことしてるんですね。でも、そろそろ唐の終わりも近そう…
 
しま:最後の打撃を与えたのが黄巣の乱(こうそうのらん)[875~884]でした。ちなみに、乱を始めたのは王仙芝でこの人は塩の密売人。政府の売る価格より安く売って利益をあげていたんですが、取り締まりが強化されて反乱を起こしたわけです。さて、反乱軍は山東省から拡大し、次から次へと都市を占領して略奪していきます。が、のちに内部分裂を起こします。

生徒:内部分裂…?

しま:黄巣の右腕だった朱温という人物が、「黄巣が居る間は、自分はNo.1にはなれない!」と考え、敵(=唐)に寝返っちゃうんです。右腕を失った黄巣は結局勝てない。黄巣が自殺してこの乱は終わります。唐は大喜びですよ!寝返った朱温を褒め称えて、朱温に「唐に忠誠を尽くす人物!」という意味で、“全忠”という名前を授けるわけです。ということで朱温は“朱全忠”という名前に変わったのです。

生徒:でも…なんか怪しくないですか!?一度裏切った人間は2回、3回と裏切るような…

しま:その通り。907年、朱全忠は唐を滅ぼして中華皇帝に即位しました。都は開封。国名は後梁(こうりょう)です。

生徒:おわった…。