「印度思想」がむすぶ日印のご縁 | 清話会

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「印度思想」がむすぶ日印のご縁 


佐藤 勉
TTCJ 会長、日本ホテル(株)常勤監査役、元(株)びゅうトラベルサービス 代表取締役社長)

     

清話会 「急接近」の10年


2012年6月、日印平和条約は、締結60周年を迎えます。同年4月、1908年からのインド語教育史上初の「ベンガル語専攻」が東京外国語大学に開設されます。ベンガル語は、アジア初のノーベル文学賞受賞者タゴールの使った言葉として、日本人に親近感があり、その言語の専攻が開設されることは、日印緊密化の象徴として、意義深いものがあります。

インドは、アジア志向を強め、「ルック・イースト政策」を推し進めており、この10年間、日本とは経済・政治・外交で、急接近、緊密な関係を築きつつあります。経済では、まだ社会主義体制の時代の1982年に、スズキがインド政府と合弁会社マルチ・ウドヨクを作り育てた地道な努力とその先見性が大きく貢献していることを見逃せません。この努力があればこそ、経済開放の1991年以降、自動車、通信・機械・製薬・鉄鋼・金融など日本企業のインド進出が盛んになり、2011年には「日印包括的経済連携協定」締結に至りました。

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政治・外交でも、2000年の 森首相の訪印時に「日印・グローバル・パートナーシップ」の構築が合意され関係強化の機運が高まり、05年の小泉首相訪印以降、毎年首脳が交互に相手国を訪問し首脳会談が行われてきました。08年には「戦略的グローバル・パートナーシップの前進に関する共同声明」と「日印間の安全保障協力に関する共同宣言」がなされ、10年にはシン首相が訪日、菅首相と首脳会談がおこなわれ、緊密な関係が出来上がってきました。

インドは、「ルック・イースト政策」ばかりでなく、多極外交も展開中です。引き続き米国との関係強化を進めるとともに,伝統的友好国であるロシアや隣国である中国,更には欧州,ASEAN,中東,アフリカとの関係強化も進めるなど国際社会での存在感を高めています。アメリカは、シリコンヴァレーIT産業のインド人の活躍や「米印民生用原子力協力協定」で、インドを戦略的パートナーとして位置づけていますし、10年には、全ての国連常任理事国の首脳がインドを訪問しました。2050年には、人口世界一になると予測されている大国インドは、日本の重要なパートナーとしてその存在感を世界に強めていくと思われます。

現在の緊密な日印関係は、一朝一夕にできたわけではなく、経済・政治・外交では100年、また、思想・宗教・文化では1500年、更にインド思想の原点では、4500年、遡ります。

紆余曲折の100年

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経済・政治・外交の100年をみると、紆余曲折が見てとれます。日本は、明治維新で近代国家になり、アジアに目をむけはじめ、1904-05年の日露戦争が、英国からの独立運動中のインドに大きな希望を与えました。「中村屋のカリー」でおなじみの「インド独立連盟」総裁R.B.ボースがインド独立の啓蒙運動に努め、国民会議派内の急進派N.S.C. ボースが日本の協力でインド国民軍を組織、インパール作戦を実施しました。作戦は失敗しましたが、インドで大変敬愛されている独立運動家と日本が組んだことで、敗戦後の良好な日印関係の遠因となりました。

第二次世界大戦後、ついにインドは独立を達成し主権を獲得する一方、日本は敗戦で主権を失ってしまいます。極東軍事裁判でのラダ・ビノド・パール判事のA級戦犯全員の無罪主張、サンフランシスコ講和条約とは別に締結し、賠償請求権・占領費取立権を放棄した日印平和条約、アジア・アフリカ会議を起点にいかなるブロックにも組しない、ネルーの「非同盟路線」は、多くの日本人の魂を揺さぶりました。同首相の愛娘インディラ名の象を上野動物園に寄贈、ODA第1号はインドとなり、1950年代は「ルック・ジャパン」といってよいほど良好な接近した関係が続きました。

しかし、1960年代から両国関係は急速に疎くなっていきます。印中国境紛争で、「非同盟路線」が破綻し、日本を失望させました。1970年代冷戦構造の時代には、インドがソ連ブロックに傾斜していく一方、日本はアメリカブロックに入りASEAN東南アジアと結びつき、別々の道を歩みました。74年インドの核実験も、唯一の原爆被災国日本の感情をいたく損ねました。1980年代、インドの社会主義型経済発展は低迷し、高度成長を遂げる日本からみると、インドは、対外貿易総額の1%、海外投資額の0.1%、ODA対象国だけにすぎない存在でした。

91年ソ連崩壊・湾岸戦争で外貨準備高枯渇時に、インドは日本の支援に感謝し、経済開放政策への転換で日本に大いに期待をかけますが、1990年代の日本はバブル崩壊後で身動きがとれなかったことや、進出が始まっていた中国との経済関係のため、冷淡な対応しかできませんでした。更に、98年の核実験に対して、日本は経済制裁を科し、無償援助と新規の円借款を停止しました。パーキスターンとの間のカシミール紛争を日本がG8や国連安保理で取り上げたことも、二国間解決方式にこだわるインドを怒らせました。すなわち、この経済・政治・外交の100年は、「接近」50年、「疎遠と冷淡」40年、「緊密」10年ということになります。   
     

印度思想の「日本化」

経済・政治・外交の深層にある思想・宗教・文化の日印関係となれば、1500年前にさかのぼります。仏教、インド思想、ヒンドゥー教の神々、音楽、仮名、カレーなど多くのものが、インドから日本へ伝播してまいりました。

538年 まず仏教が北伝し、西域・中国を経由して、朝鮮半島百済から伝わりました。

752年 聖武天皇が、度重なる内憂外患に国家の安泰・鎮護国家を祈願し、動物も植物も人間も皆栄える理想の世界をめざして、『華厳経』に説かれている毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)の大仏を造立する詔勅を発布いたしました。招聘されたインド僧菩提僊那(ぼだいせんな)が導師を務め、東大寺の大仏開眼供養が行われました。舞楽・伎楽が開催され、雅楽と楽器が伝わりましたが、この時インドのビーナは日本に来て、琵琶(びわ)となりました。

清話会 804年 空海が入唐し、恵果(けいか)から真言密教を相承、インド編纂『大日経』『金剛頂経』を紹介しました。

なお、恵果は、インド僧金剛智(こんごうち)・善無畏(ぜんむい)の孫弟子で、同じくインド僧経典漢訳者の不空(ふくう)の弟子でありましたので、空海はインド思想に深く影響を受けました。サンスクリット語が仮名の源泉であり、また、ラクシュミ吉祥天・インドラ帝釈天・ブラフマ梵天・シヴァ大自在天などヒンドゥー教の神々がやってまいりました。

985年 恵心僧都源信が、『往生要集』で、インド思想の中心命題「業(ごう)・輪廻(りんね)・解脱(げだつ)」を「自業自得」と表現、地獄の詳細な記述で,往生の願いを人々に起こさせようとしました。

鎌倉時代  大黒天マハカーラ・弁財天サラスヴァティ・毘沙門天クベーラが、伝来して、七福神の原型ができます。

室町時代 応仁の乱の後、力をつけた京都の商人が祇園精舎にちなむ祇園祭復活させ、それ以降、祭のクライマックスが山鉾巡行となりました。 流行語「三国一の花嫁」の三国とは、唐・天竺・日本のことです。 大黒天マハカーラ・弁財天サラスヴァティ・毘沙門天クベーラが、伝来して、七福神の原型ができます。

江戸時代 祇園祭の山鉾を飾るラホール産のつづれ織、インド更紗やベンガル由来の弁柄縞(べんがらじま)が伝来しました。この木綿から、日本では、着物・帯・茶筅の袋が作られました。併せて、染め物に技術も伝わりました。

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明治時代 インドから英国経由の小麦粉入り欧風料理「日本式カレー」が銀座風月堂にて8銭で登場しました。思想家岡倉天心がインドを訪問滞在、S.ヴィヴェーカナンダ、R.タゴールと親交しましたし、また、 R.タゴールも日本へ深い関心を示し、5回来日しました。

大正時代 椎尾弁匡(しいおべんきょう)が「解脱」を、個人レベルから社会レベルへと引き上げる「共生運動」を創始しました。「共生」は今日でもますます大きな影響を与えています。 
昭和時代 中村屋店主相馬愛蔵の娘俊子と結婚したR.B.ボースが、「インド式カレー」を80銭で提供、「恋と革命の味」と評判になりました。また、画家の野生司香雪(のうすこうせつ)がサルナートの根本香室精舎の仏画を創作しました。
平成時代 クリスチャン遠藤周作が、ガンジス川を舞台に『深い河』を発表しました。これが話題となり、「業・輪廻・解脱」といったインド思想の中心命題が、日本人に深く根付いていることが再確認されました。
インドの思想・宗教・文化は、意識無意識のうちに、長い時間をかけて、日本人の深層に「日本化」して定着してきました。第二次世界大戦前後、経済・政治・外交で、独立の主権回復に日本が、また、敗戦からの主権回復にインドがそれぞれ関りあったこと、すなわち、国家存亡の極めて重大でここ一番という時に、深層にある思想・宗教・文化の力が顕在化して威力を発揮したといえましょう。


古代版「ルック・イースト政策」

古代における国家形成時におけるインドと東南アジアとの関係にも、同様な思想・宗教・文化の威力が見て取れます。

1世紀から、モンスーンの季節風を利用した航海技術と、マレー半島陸路横断ルートで恒常的な交易網が形成されました。その交易網の結節点に生まれた政治権力が、王国体裁を整えるべく、内にあっては支配の正当化のために、外に対しては文明国の印として、またライバルとの競争・覇権争いに勝つための道具立てとしてインドの高度な文明を摂取しようとしました。

一方、交易ルートに乗ってパトロンを得ることができなかったバラモンや布教熱心な仏教僧など、サンスクリット語の専門知識を有する知識媒介者が、活発に移動し危険な海を渡って、新天地を求めました。こうした双方の利害が合致して、まずメコン川下流域に扶南、そしてヴェトナム南部にチャンパといった古代国家が誕生しました。  

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インドにおけるサンスクリット語は、バラモンの教義・儀礼とヴェーダ文献を伝える言語として宗教という枠の中に長くに閉じ込められていました。4世紀から6世紀まで栄えた北インドグプタ朝で、この言語を基礎とするインド古典文化が完成されますと、サンスクリット語は、宗教という枠から解き放たれ、対象を文学や行政などへ拡大、段階的に公的な政治言語へと展開して、国家形成の政治的表現の最重要な道具になりました。

5世紀になって、マラッカ海峡経由海上交易ルートができあがり、サンスクリットの言語・文化が、インドの北から南へ、更に東南アジアへと流れ込み、メコン川中下流域に真臘、スマトラ島南部からマラッカ海峡を押さえたシュリーヴィジャヤも誕生しました。古代インドから東南アジアに伝えられた思想・宗教・文化は、主権という考え方、ヒンドゥー教・仏教、伝承や神話ラーマーヤナ、宗教法典、ブラ-フミー文字であり、「業・輪廻・解脱」思想が大きな影響を与えました。これ現象を「サンスクリット化」と呼び、この過程で東南アジアのあちこちに古代国家が成立するようになりました。

すでに古代版「ルック・イースト政策」が存在していたのです。われわれは、東南アジアの古代国家形成の歴史から学んで、現代版「ルック・イースト政策」に対応することが必要です。


現代印度思想は古代と未来の共存

インド思想・宗教・文化は、BC25世紀インダス文明までさかのぼります。この文明を担ったドラヴィダ人は、すでに常に宇宙との一体感のうちに自己を忘れさせる「瞑想」を体験し、再生再死の「輪廻」思想を持っていました。BC18世紀から侵入したアーリヤ人により、聖典『リグ・ベーダ』やバラモン教ができました。

BC8世紀、「『瞑想』にて宇宙と自己とは一つである『梵我一如』の世界観」から哲学・宗教が生まれました。また、ドラヴィダ人の「輪廻」思想を自らのものにし、その論理的骨組みにアーリヤ人自らがもつ自己責任倫理思想である「因果応報」を据え付けました。

「輪廻」の原動力は、善であれ悪であれ「業」にほかならず、この「業」に人を駆り立てるものが欲・嫌悪であり、その欲・嫌悪を生み出すものは根本的生存欲であると突き止めました。逆に、根本的生存欲を滅ぼし、欲・嫌悪を、そして「業」を滅ぼして、「輪廻」を断ち切る「解脱」をもとめて出家するという「生命の本質・生命の円環」思想が生まれました。「瞑想」に加え「苦行」を通して神のお告げを人々に伝える司祭階級は大きな特権を持っていました。司祭階級の精神面での支配と武士階級での統治面での支配が確立いたしました。

勃興してきた商人階級の支持を受けて、バラモン教の司祭階級の特権化を否定する宗教改革として登場したのが仏教とジャイナ教です。仏教は、「生きている限り四苦八苦から離れない人間のこころ」を見据え、「生者必滅・諸行無常でトータルな人間論・生命論」をうたい、「現代の生命科学に連動しうるような生と死を見据える厳しい思索」をし、そして、「孤独に徹してこそ生まれる慈悲心からの共生」を提起しました。

「不殺生が動植物から地・水・火・風・大気までおよび、霊魂の存在」を認めるジャイナ教は、「現代が直面する地球環境問題を2000年間持ち続けてきた」とも考えられますし、「この不殺生と相対主義、無所有の教えは、現代のグローバリズムの中で新たな精神的語合理主義」を提起しているようです。

再改革の形で、バラモン教が土着の非アーリヤ的民間信仰・習俗などの諸要素を吸収し、大きく変貌を遂げてヒンドゥー教が、成立しました。ヒンドゥー教はバラモン教を基盤としてはいますが、紀元前後以降固有の聖典の編纂と哲学諸体系の成立、 1-2世紀以降宗派の成立、 7-8世紀からの強いバクティ(信愛)思想の盛行、 7世紀以降タントリズムの形成で仏教密教と酷似してきました。極度に密教化した仏教は1203年イスラーム軍によって徹底破壊されました。

8世紀のシンド侵入後、10世紀からイスラームの侵入が本格化、ガズニ朝・ゴール朝、奴隷王朝からムガール帝国成立に至り、かれらの神秘主義スーフィズムと相まってバクティ信愛思想が流行、また、16世紀初めに、偶像崇拝、ヴェーダ聖典の学習を無用とし、バラモン優位のカースト制度を批判しながら,唯一絶対、全能の神の前で、人はすべて平等であると説いたシク教も誕生いたしました。

西欧の侵入はポルトガルからで、1600年から次々と、英国、オランダ、フランス、デンマーク・スコットランド・スペイン・オーストリア・スエ―デンが、東インド会社を設立しました。19世紀のムガール帝国滅亡後、英国植民地となり、キリスト教・西洋文明との接触の過程で、宗教改革あるいはルネッサンスと呼ばれる大変動が起こり、R.M.ロイのブラフマ協会、D.サラスヴァティのアーリヤ協会、S.ヴィヴェーカナンダのラーマクリシュナ・ミッションなどが設立されました。

S.ヴィヴェーカナンダは、ラーマ、クリシュナ、キリスト、アッラーは、同じ神に別の名前を与えたにすぎないと近代インドの普遍主義の基礎を築き、また、1893年シカゴの世界宗教会議で、西洋の唯物主義と東洋の精神主義との調和をうたい、ヒンドゥー教への関心を呼び起こしました。こうして、現代インド思想が出来上がりました。

清話会 2001年のセンサスによれば、ヒンドゥー教80.5%、イスラーム教13.4%、キリスト教2.3%、シク教1.9%、仏教0.8%、ジャイナ教0.4%。意外と、インドは信者数で世界第3位のイスラーム大国でもあります。

ヒンドゥー教の大祭クンブメーラーに参加する遊行者は、1300万人にもなりますが、見方を変えれば、かれらは経済的失業者であるにもかかわらず、インド社会が遊行者の生き方を認めているともいえます。「失業者であっても形而上思索に価値を認める世界観」こそ、インド人を世俗的・物質的な経済活動エネルギッシュに駆り立てる原動力といえます。また、空(くう)スーニャSUNYAという概念は、2つの意義があります。

インドの数学においては世界史上初7世紀に発見したゼロを表しますし、また、2世紀の大乗仏教の竜樹の無自称縁起説(むじしょうえんぎせつ)で、固定的実体のないこと・実体性を欠いていることを意味します。すなわち、現在のIT革命のヴァーチャルな思索は、ゼロという数学の思索、大乗仏教の思索、そして古代のヴェーダ時代の形而上的な思索にまで遡る延長線上に位置していることになります。であれば、インドでは、「古代と未来が共存」していることになります。


私の印度との縁

日印関係の緊密化は喜ばしい限りですが、人的交流の面ではまだまだです。2010年の訪日インド人数66,819人で、訪日外国人総数の0.7%、2009年の訪印日本人数は124,219人で、これも0.7%に過ぎません。同じく、日本への留学生数も中国8.6万人・韓国2万人・台湾5,000人に対して、で、インドは546人であり、また、在印日本人留学生も全体の0.3%に過ぎません。

この原因は、20世紀末40年の経済・政治・外交の「疎遠と冷淡」に起因する固定観念からくるものです。未来に向かう時には、経済・政治・外交の戦略の深層構造である思想・宗教・文化をきちんと把握しておくべきです。「梵我一如の世界観」、「業・輪廻・解脱の生命円環の思想」、「慈悲心からの共生」、「不殺生での地球環境保護」、「遊行という生き方を認める世界観」、「古代の宗教・数学と未来のITとの共存」など。すなわち、歴史的・地理的な空間において、宗教・人種・言語など多様な価値観を暗黙裡に寛容し、その融合の世界から新たなエネルギーを汲み上げてきた智慧がインド思想であると考えています。

清話会 日印関係は、4500年の縁が今実ろうとしています。私は、18歳の時、にヒンディー語とインド事情を大学で専攻したのが縁で、インドとの関わりが始まりました。29歳の時、「第三回東南アジア青年の船」にのり、ASEANの中のインド文化を体感することができました。35歳の時に、JICAの鉄道調査団の一員としてパーキスターンのラホールに1ケ月滞在し、ヒンディー語もウルドー語も話し言葉としてはほぼ同じと実感しました。

JR東日本とJALを親会社に持つ海外旅行会社に勤務し、58歳で、念願のインド訪問が実現しました。その後毎年のようにインドを訪ね、2008年には「日印観光促進委員会」の発足に関わるという縁に恵まれました。

旅の力による「インドとのご縁」で、日印という宇宙と自己が一つになる「梵我一如」で、解脱できれば本望です。



★ 日印関係の歴史

538 仏教北伝、西域・中国を経由、朝鮮半島百済から伝来
    サンスクリット語→日本語の例-僧伽・伽藍・瓦・檀那・舎利・寿司のシャリ・鳥居

752 インド僧菩提僊那(ぼだいせんな)、奈良東大寺で、大仏開眼供養、      
-東大寺創建、聖武天皇・菩提僊那・行基・良弁
このとき,舞楽・伎楽が開催   音楽とともにビーナ(琵琶となる)など楽器が伝来 
梵語が、「悉曇学」や「かな」の源泉 インドの神々(サラスヴァティ弁財天、ラクシュミ吉祥天,インドラ帝釈天、ブラフマ梵天、シヴァ大自在天)伝来

804    空海入唐 師恵果(けいか)から真言仏教学ぶ 『大日経』『金剛頂経』を持ち帰る
恵果―インド僧金剛智(こんごうち)・善無畏(ぜんむい)の孫弟子、不空(ふくう)の弟子 

985   恵心僧都源信『往生要集』 「業(ごう)・輪廻(りんね)・解脱(げだつ)」を「自業自得」と表現 地獄の詳細な記述で,往生の願いを人々に起こさせる 

15C   11年にわたる応仁の乱の後力をつけた京都の商人による祇園祭(祇園精舎,ジェ-タ・ヴァナ)再開,山鉾巡業が定番となる

16C    七福神(恵比須・大黒天マハカ―ラ・弁財天サラスヴァティ・毘沙門天クベーラ-インド来、室町末期までに確定   布袋・寿老人・福禄寿-中国来)  

1582   天正少年使節団、欧州へ向かう途中、ゴアに立ち寄り

17C   江戸時代には、七福神巡りが大流行、鉾を飾るラホール産つづれ織カーペット、インド更紗やベンガル由来の弁柄縞(べんがらじま)伝来 日本では更紗で、着物・帯・茶杓の入れ物をつくる
1877  銀座風月堂の洋食レストラン8銭(もりそば1銭)で「日本式カレー」提供
1901  岡倉天心インド滞在、S.ヴィヴェーカナンダ、R.タゴールと親交
1905 日露戦争講和条約が、植民地化のインドに、大きな衝撃
1908  旧制東京外国語学校において、インド語教育(ヒンドスタニー語とタミル語)始まる
1916   R.タゴール1929年まで5回来日、日本への関心深く列強諸国の侵略的国家主義批判
1922 椎尾弁筐(しいおべんきょう)、個人レベルでなく社会の解脱を目指す「共生運動」開始
1927 新宿中村屋、R.B.ボース 「インド式カレー(80銭)」
1936 野生司香雪(のうすこうせつ)、サルナート根本香室精舎の全壁面に30の画題を描き終える
1944 N.S.C.ボース インド国民軍 印パール作戦 
1946 極東軍事裁判、ラダ・ビノド・パール判事
1949 インド首相ネルー、愛娘インディラ名の象を上野動物園に進呈
1952  日印平和条約
1955   アジア・アフリカ会議 ネルーと周恩来「非道面路線」を牽引 
1957   日印文化協定・首相相互訪問
1958   ODA 第一号
1959  皇太子と妃殿下、訪印
1962   印中国境紛争
1974   インド地下核爆発実験
1982  スズキ㈱マルチ・ウドヨグ社と合弁事業開始
1991  インド外貨危機、湾岸戦争とソ連崩壊―日本政府4.5億弗、邦銀20億弗供与
1993  遠藤周作『深い河』  「業・輪廻・解脱」が根付いていること再確認
1998   インド・パーキスターン地下核実験
2000   森首相 訪印
2005  シン首相-小泉首相、共同声明「日印グローバル・パートナーシップ」
2006   シン首相訪日
2007  安倍首相 訪印 「戦略的グローバル・パートナーシップ」日印文化協定締結50周年―インド友情年           
2008  シン首相 訪日「戦略的グローバル・パートナーシップの前進に関する共同声明」「日印間の安全保障協力に関する共同宣言」
2009  鳩山首相 訪印
2010   シン首相 訪日
2012   日印平和条約60周年 東京外国語大学に「ベンガル語専攻」開設




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清話会 佐藤 勉

TTCJ 会長、日本ホテル(株)常勤監査役、元(株)びゅうトラベルサービス 代表取締役社長)

1947 年東京都生まれ。 国鉄時代、新潟県魚沼石打でスキー観光、 J R 東日本時代、群馬県で温泉観光、またびゅうトラベルにおいては、訪日旅行観光、及び「アジア」を軸とした海外旅行の開発促進に取り組む。 日本旅行業協会‐インド観光促進委員会顧問、ぐんま観光特使、高崎経済大学非常勤講師を兼務。

http://www.ttcj.org/