茶の湯と女性の関わりは、室町時代の闘茶というまだ茶道にはならない時代から始まっていた。
一番古い記録の闘茶、お茶の飲み比べで本茶と非茶を飲み分けるゲームなのだがそれが大変な景品を賭けたもの、博打と同じであった。
何十服もお茶を飲み、お酒も沢山用意して贅沢な料理も食べていたようだ。
一番盛んだったのは、興福寺門徒の闘茶であった。
無礼講で女性も男性も混じった宴会のように賑やかだったという。
幕府は何度も闘茶の禁止令を出したが効き目がなかった。
それもそのはず、幕府の中枢にいた佐々木道與という大名が率先して闘茶会をしていたのである。
だが、この闘茶のブームでお茶は大量に生産されるようになった。
室町時代も終わりになると、お茶の品質もよくなり、ますます庶民にも飲まれるようになった。
一服一銭の街中の茶売りも現れだす。
一方、茶の湯は利休の出現で闘茶とは違う、禅を取り入れた侘び茶に発展する。
この時代は表舞台から女性が見えなくなるのだ。
だが、この江戸時代の錦絵のように女性も茶道をたしなんだ。
家康の時代になると、質素倹約ということから、男性も茶道を簡単に出来なくなる。
武士は殿様の許しを得てからでないと茶道を許されなかったという。
庶民はもっと厳しい。
50歳になって家業を譲って隠退しなければ始められない。
一般の女性は、普通は許されない。
だが、例外もあったらしい。
東福門院という家康の孫娘は宗旦から茶の湯を習っていた。
兎に角、茶道を始めるのも大変な時代であった。
だが、これは幕府の方針で厳しい法律でもなかったので、幕府の意向とは逆に茶の湯は流行っていくのである。
女性が茶道の表舞台に始めて立ったのは、明治時代の初めに行われた万国博覧会であった。
立礼式の茶道を京都の女性が、外人に披露した。
明治になって、女学校が出来るとその正課に茶道が取り入れられた。
女性が堂々と茶道が出来るようになったのである。
明治からの新しい女性の茶道への参加は、昭和の戦後になって爆発的なブームになったのである。
私が茶道を始めたころは、どこの茶会に行っても男性は私一人ということが多かった。
時代と共に男女が逆になったようだった。
だが、最近は男性も茶道をはじめる人が多くなりよいことだと思っている。