神楽坂は江戸時代に整備された。
それにしては袋小路が多く、迷路のような道が多い。
それには理由がある。
江戸城を完成させた家康はいざというときの逃げ道を考えた。
それで江戸城の西の門を田安門として通用門として使いながら、その出口の方に有力な旗本と柳生家の屋敷を作った。
それが神楽坂の坂下から坂上まで続く。
いざというときは旗本がその袋小路で敵を待ち伏せるように道を作ったのである。
家康の逃げ道は遥か白河まで続き、途中の寺院にはご朱印を与え、武器、兵糧を蓄えていたという。
その始まりが神楽坂なのである。
江戸時代には坂下に神田川から入る船の船着場があった。
坂上の町には箪笥町、納戸町、細工町という名が今でも残る。
私の知っている畳屋さんも江戸時代は大奥に出入りしたという。
明治時代になると神楽坂はガラッと変わる。
明治政府により花柳界が作られたからである。
私が生まれた頃はたくさんの料亭と芸者さんの居る置屋と呼ばれる家がたくさんあった。
町は華やかであった。
小さな子供でも遊び場には困らなかった。
映画館は五軒もあり、毎週楽しみであった。
交通も今のような地下鉄はなかったが、路面電車の都電がたくさん通っていた。
神社やお寺も多く、それぞれの縁日にはたくさん人が集まった。
神楽坂で有名な毘沙門天善国寺の縁日は一番人が集まり、通りも人で溢れ歩けないほどだった。
縁日は坂下から坂上まで続いた。
何しろ縁日は楽しかった。
私はバナナの叩き売りの口上が好きで、100円持っていくと山ほどバナナが買えた。
神楽坂は芸能人も多く居た。
美空ひばりさんも子供の頃からよく来ていた。
昭和36年に花柳界がなくなると、料亭も殆ど店仕舞いしていった。
その後銀座にその座を明け渡した。
だが、神楽坂はその後美味しいものがある店が多く出来て、昔の人の流れを取り戻した。
今はフランス、イタリヤ料理の美味しい店もたくさん出来た。
やはり戦前からの神楽坂の食べ物の味は忘れられていないのだろう。