「聖書〜宇宙の約束〜」
初めてイスラエルを訪ねてから37年。
まさか自分が聖書を書き改めて、やまとこころで編纂するとは、お釈迦さまでも知らぬ仏のビックリ現象。
静かに広がって、
各地で読書会が開催されている。
知ることは、愛の始まりです。
4,000年前の物語と今、
人間関係の本質は、変わることはありません。
近い人、そうでない人、
登場人物が入れ替わり、立ち替わり。
出会ったころと関係性が変わってゆくのもよくあることです。
「相手が変わった」となじりますが、
もっと変わっているのが自分であることには気がつきません。
魚に水が見えないように、人には自分が見えませんから。
付き合いが長くなると、
つい相手の欠点に目が行きます。
だんだん尊敬できなくなってゆきます。
いやなところを探すようになります。
そして、言ってはいけない言葉を吐いてしまう。
わかっていたはずなんです、
そんなこと言ってはならないと。
だけど自分の中の子どもが暴れると
もうどうにも止まらない。
では、どうすれば相手を尊敬できるようになるのでしょうか。
それは「常に相手のよい面を見つけること」でしょう。
好きになった時には、「あばたもえくぼ」に見えるようになっていますが、やがて魔法が解けると、「あばたはあばた」に戻ります。
それでも、意地でもあばたをエクボだと自分の脳をだますのです。
いいところを見つけるには、努力が必要です。
いやなところは、自動的に発見できますから楽です。
でも、それではこの世に生まれた甲斐がありません。
目の前の人を、
自分の思い通りにつくり変えようとするのではなくて、
「相手はこういう個性があって、自分とは違うものを持っているんだ」
と、丸ごと全部感謝して受けとめる。
そして、受け入れる。
それから、人間関係を受けて立つ。
出逢いは奇跡です、芸術です。
相手のすばらしいところ、
社会のよいところ、
人生の楽しさを自分の中で見出す訓練ができるようになると、
あれこれと批判、論評をしなくなり、お互いを認め合うことができるようになるでしょう。
きっと、それこそが世界の平和につながってゆくのだと思えます。
ところが、
同じ言葉を他人から言われたときは、怒らないで踏み止まることができるのに、同じ言葉を妻から言われると、すぐに腹を立てる私がいます。
外では踏み止まれるのに、家では踏み止まれない(正確に言うと「踏み止まらない」)のは、「幼児性」があるからです。
甘えの構造であります。
また、打たれ弱いので、
先に口先で言い負かそうとします。
自分が傷つくのがいやだから。
家庭というものは、自分の思いを通す場所でも、甘える場所でも、ストレスを発散させる場所でもなく、
「幼児性を削って大人になる学びの場」なのです。
結婚をして、わがままが言える相手ができた状態になったとき、いかに踏み止まって相手を受け入れるか。
恋人も友人もそうです。
ワガママが言えるようになってからが学び。
でも、私の「幼稚性」の克服はまだまだです。
踏みとどまれません。
外面はいいのに、家の中ではワガママの化身です。
父親もそうだったんだなぁ・・・と、いまはわかります。
私たちが、この世界に生まれてきたのは
「人間関係」と「経済活動」を学ぶためですね。
その原点の原点の家庭。
そして、経済活動の現場。
すべてはここから始まります。
会社も、人間性を向上させ、幼稚な自分から人に役に立つ大人になる学びの場。
しっかり学び合い、
成長し合い、
魂磨きあって生かされてゆきましょう。
出逢いは奇跡
付き合いは創造
出逢ってくださってありがとうございます。
神有月の出雲への旅
一緒にいきましょう。
