精神分析学講座 (nakamoto-masatoshi.com)
精神分析療法および精神分析学の体系的な講義を目指します。
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2016-04-08 17:45:07

「治療精神医学への道程」を読む

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「治療精神医学への道程」を読む

 患者さんからもらった本なのでなんとなく軽い気持ちで読み始めたが想定するより深い内容がこの本には隠されていた。著者は精神分析にも興味を持つ精神科医。元は阪大の助教授だったが象牙の塔では臨床はできず、大学を飛び出し自分自身の治療組織を作り自らの臨床と学問を作り上げた人だ。弟子に厳しい事でも知られる。ロ-ルシャッハの研究者としても著名だ。この本の内容において臨床的価値のあるところを適宜取り上げ著者自身の文章に即して考察したい。

・著者の関心事は精神分裂症の治療に集中している。

・著者が精神科医になったとき精神分裂症の治療補法はなきに等しかった。著者はこの治療に敢然と取り組む。

・「この人はなんとかなるのでは」という気持ちで接していると、その患者の症状が良くなってくる。著者の原体験。- それまでは分裂症という病気は不可解とされ不可解な病者は不可解だから接してもしょうがないとして放置されていた。分裂症の患者に対しては接することが重要かつ肝心。ビンスワンガ-もメダルトボスもライヒマンも同様に言っている。私も同感。患者は接しているだけで良くなる。

・人間として通じ合える事が肝要。- 患者を不可解とみると人間を物化してしまう。人間としての疎通性を求める。疎通性はまず治療者が試みる。患者といえども疎通性はあると治療者が確信することが肝要。

・患者自身の情けなさに治療者が反応する。- 治療者も情けないと思う事。治療者の無能性を介して患者の無能性に迫り、そこに疎通性の橋頭保を見出す事。否定性を介しての共有体験。

・人間的連続性が必要。- 患者の体験を治療者が追体験することが必要。なら患者の、具合が悪い点(症状の一部)を治療者の中に想定し、それを患者に伝えるとともに患者自身の中にも同じ傾向があると伝える。人と人をつなげる試み。具合の悪い点を患者の中に指摘することにおいて患者と治療者との連続性が開拓される。他者との連続性は個人の過去現在未来の連続性でもある。空間的連続性と時間的連続性は相補騒動であること。

・症状という危惧を絶対化しないこと。患者は自己の弱点を。そうだと決め込み絶対化している。治療者は患者のそういう傾向に対して、患者の危惧を相対化する必要がある。そのためには前記したように、患者の危惧欠点症状を治療者の中に想定しそれを患者に伝えることによって患者の危惧を相対化する必要がある。理由があるからそうなるのだと患者を導きそしてその上で、貴方の言っていることはおかしい、と言明し病識確保の一里塚とする。

・例えば幻聴に対して。感覚だけでものを言ってはだめだとして、患者を論理的思考に引き込む。ここで治療者は幻聴に似た現象は健常者にもありうるとして患者との連続性を確保する。要は患者の中に人格の連続性を確立するために治療者患者間の連続性同質性を得ようとすること。

・治療者は、患者が良くなるという楽観性を持つ必要がある。治療者が疾病に対して楽観的になれば症状もよくなる。治療者の内部での治療への確信そしてその旨を患者に伝える。治療者は患者にとって教師、モデルそしてカリスマ。逆に患者は治療者にとって教師モデルカリスマでもある。治療的相互性の確信が肝要。

・原点は疎外体験、疎外体験からのがれるために自我領域を退縮させて疎外体験を異物として外部に放出する。この異物が症状。投影機制。

・治療者がどうしていいか解らないときはともかく患者のそばに行き寄り添うこと。患者と治療者が一体化する事により、患者をして精神症状とは何かという問題に直面させること。

・人間から脱落するという強いおびえ。なら治療者は支えよう。

・他者に近づくことを求め、同時に他者の接近におびえる。このおびえを治療者は患者と共有することが肝要。

・「貴方が陥っている状況は貴方が人間だから(必然的に)起きる状況です」と伝えること。一体化を介しての共感の投与。

・治療者は、どれだけ自分に対してやっかいなことを許容できるかが問われていること。

以上この本の内容を私の解釈でまとめてみた。分裂症への精神療法的試みの主要な項目は網羅したつもりだ。肝要な点は患者と一体化するために治療者は自己の中に病的な部分を探し求め、それを武器として患者の病根に迫ることだ。アメリカにサリヴァンという精神科医がいた。彼は分裂症の精神療法で有名だったが、彼自身の言明では彼は一時分例証体験を持ったという。

参考文献

 治療精神医学への道程  辻悟著

   治療精神医学研究所、大阪カウンセリングセンタ-出版

2016-04-02 18:51:32

[描画と病跡」を読む

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「描画と病跡」を読む

 作品「描画と病跡」はラカン派のアナリスト三好暁光氏の論文集を京大教授新宮一成氏が編集して発行したものである。ちなみに三好氏は新宮氏と私の共通の先輩である。ここでは煩雑さを避けるために「病跡」を中心に論考する。ラカンの功績(功罪といえるかもしれない)はフロイトの解釈技法を言語空間に移行(転移)させ、そこから主として文学作品の解釈を通して精神分析学の視野を広げたことにある。あるいは視野を曖昧にしたかもしれない。

 通常精神分析療法では治療者client間は言語の応酬で結ばれる。そして転移対抗転移に媒介されながら両者は相互に変化し、clientは治癒に至る。ラカンはこの言語を重視する。通常の分析では使用される言語は具体的であり非象徴的であり限られる。ラカンは分析の比重を言語に置くことにより、言語の役割をより重視しようとする。ここで分析の対象材料は人間から作品に移行する。

 作品とは何かと言えばある状況に置かれた作者がその状況を置かれた時点からおのれの自我ででもって逆照射することによって作られる。作品には必ず作者の分身つまり作中内作者が登場する。であるから作品を書く事は自己との対話であり、作中内で自己と同一化された主人公との対話である。またある作品を読むことは、読者が作者と同一化しているのであり、読むことによって読者は作者と作品の関係を再体験し再解釈していることになる。

 この意味でclientと作品は同一である。ただ決定的な違いはある。clientの存在の大部分は具体的現実的存在であり一方的に分析者が創造しえるものではない。それに対して作品は作者の創造である、あるいはほぼ創造である。実際の分析においても転移関係でもって分析者は被分析者に影響を与え変化させるのであるからlientの一部は創造していることになる。ただし一部だけ。作品の分析においても作品の一部は現実に接触しているのであるからすべてが創造というわけではない。

 では現実の分析と作品分析の違いはどこにあるのか。私は違いの根拠を身体に求める。clientは分析者が与える言語により影響を受けるが、その背後には感性感情究極的には性衝動という身体がある。この身体は強靭であり言語の影響には抵抗を示す。作品においてはそれが大部分作者の創造であるがゆえにこの種の抵抗は小さい。だから作品の分析の視野は広い。私には「源氏物語の精神分析学」という著作があるが、その内容は主人公の内面のみならず彼を取り巻く環境全般に関心は広がった。当時の政治経済状況、宗教的情操、文学史、女性論、年中行事、権力闘争などなどすべての状況に羽翼が広がった。作品分析の魅力はこの点にある。作品を精神分析的観点から分析すると作品と作者のそしてそれを取り囲む社会状況がより広く見えてくる。三好氏そして御大のラカンはそういう仕事をしているようだ。三好氏がしておられる作品の分析は紙面が限られるから省略する。抽象的だが要点を絞って言えば、作者は主人公と同一化しており、そして作者と主人公は常に同一化を通して相即相反の関係にあり両者は弁証法的関係において変容してゆく。

 私の経験によればclientの分析が作品の分析に与える影響は圧倒的だが、逆方向の影響は意外と少ない。単純に言えば作品分析などしなくても実際の分析はできる。実際の人間と言語により構成された人格は異なる。ただ多くの分析家は文学作品に挑戦したがる。それは文学作品を表す作者の大部分が病理的でありその産物である作品には病理が潜在しているからである。私がある文学史の本を参考に調べた結果では明治以後100年間に活躍した作家の50%以上に著名な病理が見られた。また私も含めて分析家という存在は自らを病理視しやすい。だから作品分析に興味を持つのだろう。ただ実際の分析と作品分析の間の決定的違いは前者における強い転移関係の出現である。それに比すれば作品分析などはペ-パ-ワ-クに過ぎない。実際の戦場と戦争映画の違いのようなものだ。

 ではラカンの功績はどこにあるのか。それは精神分析学が本来持っている社会性(社会批判性)の視野を広げそれに論理的修飾を施した点にあるだろう。ラカンはすべての精神分析現象を記号に置き換えた。この置き換えにより学説は記号の操作により(疑似)論理性を獲得した。それは経済学において均衡学派が経済現象をすべて数理化しょうとしたのに似る。性衝動を記号化するのは無理だ。あえてそれをすれば論旨は拡散し浅薄なものになり実際の影響力は薄れる。ラカンの学説は現代の密教ともいえる。

   参考文献  「描画と病跡」  新宮一成編集  ライフメディコム   

(付)言語が身体と密接な関係を有する事は間違いない。この問題にかんしては後日あらためて論考したい。

2016-03-27 19:23:57

教師の心が折れるとき

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  「教師の心が折れるとき」を読む

 著者は教師の健康管理をも専門とする医療機関に勤めている臨床心理士である。この本は著者の10年以上わたる臨床経験から見た教師受難記である。2013年の記録では全国で5078人の教師が病気療養中でありその大半は精神疾患だという。教師は精神疾患にかかりやすいという事は強調しておく。まず教師は絶対的に多忙である。生活指導と部顧問という授業以外の課業を負わされている。時間外出勤は当然視され、残業代は一切でない。そして教師は対人サ-ヴィスが専門である。加えて教育は公的な住民サ-ヴィスである。(聖職)元来対人サ-ヴィスとはとかく面倒な人間と言うしろものの相手とするがゆえに葛藤が絶えない仕事である。公的サ-ヴィスという事は公的機関を代表して職務を遂行することであり、簡単には断れない仕事だ。さらに教師の世界は水平化されており管理職の指揮権は曖昧であり従って教師間の分業体制は不完全である。簡単に言えばさぼりたい人はさぼれ、仕事をする人には仕事が集中する。水平化と言えば平等のようで結果としては無責任体制になりやすい。また教師の世界は、教師が一つの学級を専管するために学級王国になりやすく他者が介入しにくい組織になっている。

 教師の仕事の相手は生徒であるが、近年教師生徒間のトラブルが増加している。その典型が「学級崩壊」だ。こういう時交渉の相手は生徒に限らずその保護者でもある。モンスタ-ピアレントという言葉に代表されるように非常に面倒な加害的な保護者も多い。念のために言えば多くの保護者は正常である。このような加害的保護者とトラブルと教師に疲労は倍増する。この種の保護者は親としての責任の問題を教師にすり替え、生徒の倫理指導を教師学校に全面的に負わせる傾向がある。こういう場合管理職が介入しても問題は解決しない。私の知見した例では、問題が生じた、担任が悪いとされる、そして執拗に学校に連絡し抗議してくる。校長は電話のたびに出なければならず、無用無意味と解っている電話を断れないらしい。断ると公共の責務を放棄したと非難される。教師は生徒を指導する立場にあり、そこには一定の吟持が求められる。換言すれば生徒に対して簡単には、君が悪い、とは言えない立場にある。つまり現今の教育界では下の立場の者が強くなるということである。一般に上司に叱られても耐えうるが部下に非難されるとその衝撃は執拗な外傷になる。学校と教師はこのような立場に置かれていると見ていい。生徒が自殺すると大概学校長が誤っているが、私の経験から言えば親に問題がなかったのかと問いたい。同じ環境に置かれても圧倒的多数の生徒は自殺などしない。

 多忙であり対人折衝専門であり孤立しやすく聖職ゆえにむやみと自己主張できない教師が精神疾患にかかる率は非常に高い。面白いことに指導困難校の教師には発症は少ないという。理由はこのような学校では教師が団結しないとやってゆけないからである。私の住む町にも有名な指導困難校があるが同様の話を聴いた。

 著者は教師が発症する代表的契機として、教師なりたての一二年目、転勤、そして家族の病気死亡などの人生の転機を挙げている。

対策としては充分な睡眠の確保(教師は平日の睡眠不足を休日に取り返している現状だがその休日も出勤しなければならない事が多い)、上司同僚との交流促進、なんでも引き受けない事(頼むと言え断れるべく振る舞う事)、管理職の指導性、メンタルアドヴァイザ-の設置、そして医療機関への受診を挙げている。また家族管理職も主治医と面談する事も挙げている。家族管理職との面談は非常に有効だ。悩みと状況を共有できるから。主治医臨床心理士に限らず話を聴く側の態度としては、まず傾聴、次に共感をもって、そして自由な態度で聴く事が挙げられている。自由な態度で聴くとはやや雑談風に聴く事だ。特に肝要な事は、当人が「死にたい」と言った時だ。この時は守秘義務を犯しても関係者に知らせ、できれば入院の手続きを取ることだ。自殺はありうることと心得るべきだ。また自殺は治療者そして家族にとっても外傷となる。禁句は「がんばれ」だ。著者は言っているが、一度疾患にかかり休職すると簡単には復職できない。その点では私も同感だ。疾病それ自身そして自信喪失に加え仕事のノウハウが失われてします。著者は最低でも三年をかけリワ-ク、同病者同士の集団交流、模擬出勤など提唱している。三年間は部顧問、担任などを避け、公的行事への参加も控えめにすべきだと言っている。

私の意見を追加する。生徒保護者とのトラブルに際しての対応は学校に任せず県教委レベルで公的仲裁機関を設置してそこで中立客観的に対応すべきだ。対人サ-ヴィスという仕事は一番葛藤を生じやすく従って疾病を呼び起こしやすいということを関係者は自覚する必要がある。トラブった場足担任や校長などの個人のレベルでは対応できない。世の中には話しても解らない人間がいる事は銘記すべきだ。また生徒が暴力行為に及んだ場合は原則として警察や司法に委ねるのが賢明だ。暴力を放置すればよりエスカレイトする。

また学校経営における序列をはっきりさせ権力の所在を明確にする必要がある。校長教頭のみならず教務主任や生活指導主任などは管理職としその職務に相応しい賃金を払うべきだ。日本の教育は現場の教師個人の善意に頼りすぎてきたのかもしれない。

「教師の心が折れるとき」井上麻紀著 大月書店より。

2016-03-18 16:22:26

攻撃性の研究(60 完)

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11 ライヒとクラインの理論は本質的な点で非常に似ている。両者とも転移分析を具体化し体系化し簡便なものにした。クラインは死の衝動を生命の本源とみなし、そこから空想の万能性を精神現象の基軸とした。ライヒは社会改革を志向し、社会の調和のための万能の処方を夢想する。その帰結がオルゴンなる自己と宇宙を結ぶ性能力である。クラインの重要な後継者であるビオンが提唱するベ-タ要素はライヒのオルゴンに似る。クラインとライヒのもう一つの類似点は、両者とも彼らの理論の枠組みの中で自我を重要視しなかったことである。師匠であるフロイトから冷遇された点でも二人は軌を一にする。私はフロイト以後の精神分析学説の発展において一番重要な貢献をしたアナリストはこの二人であると思う。

 ハルトマンの理論は自我という機構に重点を置くところでライヒ・クラインのそれと決定的に異なる。同時に彼は自我機構の下部構造として生物学的基盤を設定する。しかし自我と言ったとたんにそれは神聖不可侵になり分析不能になる。形式的には合理的にみえるがそれが技法に貢献するところははなはだ寡少である。

 以上フロイト以来の精神分析学における攻撃性概念の意義と変遷について簡単に概括した。ここでは「攻撃性」にのみに焦点を置いたために記述は簡潔になった。それ以上学説史に興味のある方は拙著「精神分析技法論」「フロイトとヘ-ゲル」を参照していただきたい。以下に精神分析療法がその100年以上の展開の中で提示してきた攻撃性への対処を簡潔にリストアップする。

 陽性感情の備給

 不安の再体験

 攻撃感情の表出

 自己実現

 現実の発見

 性衝動の解放

 身体の成熟

 支持

 適応による妥協・合意・了解

 シンボル、創造、遊び(移行対象、ファンタジ-、モラトリアム)

                      攻撃性の研究 完

2016-03-09 16:02:34

攻撃性の研究(59)

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10 ライヒは攻撃性概念を理論の中枢に置いていない。少なくとも明示はしていない。彼の精神分析への貢献の最大のものは抵抗分析の体系化にある。彼は分析解釈の対象を形式と内容に分ける。clが治療者に対して過度に礼儀正しい、従順である、感情が閉鎖されているようだ、真実性に欠ける印象を受けるなどなどの態度はその背後に去勢不安や近親相姦願望あるいは父親への女性的屈服などの体験内容を隠蔽していることを示唆する。clのこのような態度を性格抵抗という。この抵抗が分析され除去されないかぎり分析は進展せず洞察すべき内容は回避される。性格抵抗は治療者に対する態度振る舞いの一切を含む。話し方、声の抑揚、入退室の様子、寝椅子へのよこたわり方、視線、表情一切は被分析者の性格を暗に表示する。clが抱える基本的葛藤が治療者との関係の中で表現されたものつまり治療者への転移がこのような態度行動である。性格抵抗はclの葛藤が行為振る舞いという非言語的な形で表現されるので、言語的に表現されるべき葛藤に対してその外側に現れた形式とされる。前者は内容である。ライヒまでの分析は主として内容に重点を置いていた。被分析者が言葉を通じて表現しない限り治療者は葛藤を把握できない。ライヒは内容分析に形式分析を対置し抵抗分析の主軸を形式分析に置く。形式と内容は相互補完的関係にある。分析者はただ受け身に想起される内容を待つのではなく、治療関係という現在の場を分析の対象としてそこから基本的な葛藤に入り込むことが可能になる。フロイトによって提起された転移と抵抗の分析はライヒにより統合され体系化される。

 形式分析の対象となるclの振る舞いや行動はすべて攻撃性の表現であり、対処するライヒの態度も積極的攻撃的である。さらに彼はかかる性格抵抗の原因を社会倫理による禁圧に求め、この禁圧し抑圧する社会との対決を治療行為の根本とみなす。彼は個人治療者であることを離れて社会改革者への道を志す。これはclに行動化、攻撃性の解放を暗に勧めることでもある。以上がライヒの分析理論の簡単な素描である。彼は治療者としての態度においても、clの振る舞いの把握に際しても、両者が社会に対して取るべき対応においても、攻撃性を強調し重視している。

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