法話:安楽に彼岸を過ごす | 晃輝和尚のブログ「覚禅堂」

晃輝和尚のブログ「覚禅堂」

岡山県津山市にある曹洞宗少林寺住職、
清涼晃輝のブログ

 

今日はお彼岸の中日。仏教週間ですね。

仏様にご先祖様にお心を寄せていらっしゃる方も多いと思います。

盆や彼岸は「墓参りツアー」だ。という方もよく聞きます。

 

さて、そんなお彼岸だからこそ、仏様の教えを学びたいですね。

 

「謂(いわ)ゆる坐禅(ざぜん)は習禅(しゅうぜん)にはあらず。唯(た)だこれ安楽(あんらく)の法門(ほうもん)なり、菩提(ぼだい)を究盡(ぐうじん)するの修證(しゅしょう)なり。」〔普勧坐禅儀:道元〕

 

坐禅は、積み重ねて習得する精神統一ではなく、ただ安らかな道である。さとりの道は、その自然でありのままの坐禅が、究極なる仏の行である。

 


お彼岸になりお参りをしようと思い、お寺参り、お墓参りをする。

その墓参りをしているときが坐禅と同じ境地といえます。

 

何を求めるわけでもなく、ただ一心に墓掃除をして、綺麗に花を供え、線香を手向け、合掌礼拝する。

 

何年やったから、何回参ったからといって、競うわけでなく、自慢するものではない。

 

損得の勘定はなく、期待がないから、結果を求めない。ただ、私がお参りをしてくて行う。

 

ただ、お参りをする。その行為と心が安楽の境地。

 

だから、お参りをすると心が落ち着く。

 

坐禅も、静かに、坐る。

 

そうすると、自然と安らかな心持ちになってくる。

 

目の前に、花や虫や樹木はただ自然に生きている。

 

彼岸が来たら、自然とお参りする。

 

そのただお参りする気持ちと行為こそが仏様だと思うのです。

 

何か事情があってお墓参りが出来ないとき、そこで静かに坐禅をする。

 

姿勢を正し、呼吸を整え、静かに坐る。

 

寝たきりでもよい。ただ、静かに時を過ごす。

 

安楽なお彼岸は、この今という瞬間にあらわている。



しっかりお彼岸の安楽を感じたい。