銭洗弁天 | 不思議なことはあったほうがいい

 出不精のこの僕が、欲望にかられてのお出かけ。

籠にありったけの小銭をぶちまけて、ご聖水でジャブジャブジャブー! 鎌倉の宇賀福神社境内にあるお金倍増祈願のカミサマ。。

 鎌倉で弁天といえば、鶴岡八幡宮。源平池の東中ノ島に鎮座する旗揚社にタギリヒメイチキシマヒメタギツヒメ宗像三女神 を祀る。この八幡サマはもと、後三年の役戦勝後に源頼義が砂浜に氏神として祀ったもので、八幡太郎・義家もこれにならった。さらに源頼朝が挙兵した1180年(治承四年)、神意によって現在地へ遷したという。イチキシマヒメが弁天と<習合>した。
 一方、我が銭洗。参拝に順序があって、境内の上之水社、下之水社‥と巡回して、最後に奥宮で銭を洗うのだそうな。すなわち、銭洗のほうも、宗像三女神の三つの宮を小宇宙化したんだろうなあとは想像される。


 そもそも銭洗弁天=宇賀福神社は、源頼朝の夢に爺が現れ、そのコトバに従って清水をみつけて、ここに神仏を祀った。既に平家は壇ノ浦に滅び、弟・義経が後白河上皇に重用されだして、頼朝としては面白くない時期、1185年(文治元年)のことである。巳年・巳月・巳日のづくしのときであったので、ヘビつながりで夢のカミサマは宇賀神だったんだと。このカミサマは上半身は爺だが、下半身が蛇だからなんだと。
 名前から察するに宇賀神とはおそらく「ウカノミタマ」=お稲荷さんであろ。三方を山に囲まれた鎌倉は、頼朝の御所の中に狐が舞い込むこともあったという田舎状態だった。とくに現・銭洗弁天周辺の山山は、「隠れ里」などと呼ばれた雰囲気タップリの森地。で、ここにはまた「佐助稲荷」というのもある。佐助とは<前兵衛佐=頼朝>を助けたという意味で、いまだ決起を決めかねていた頃(つまり鶴岡の神勅・宇賀の爺夢よりも前)の頼朝の夢に、これまた老人があらわれ、いまこそ決起すべしとうながした。後年、それを記念して建てられたちうことである。
 お稲荷さんグループの本家、京都の伏見稲荷は、もとは秦氏が司ったのだと「山城国風土記逸文」にある。山城・深草に秦伊呂具という者がたいへん裕福であったので、餅を的にして弓を射たら、餅は白鳥になって「伊禰奈利」した=稲が生った。そこでそいつを引っこ抜いてきて社をたてて「イナリ」とつけた。(→「餅的」

そもそもこの地域で秦氏が裕福になったのは、欽明天皇が即位する前、“「秦大津父」という人物を登用寵愛すれば天下をとれるだろう”と夢に人の告げたことがあった(また夢のお告げだ!)……実は、このころは残虐で知られた武烈天皇死後、遠縁の継体天皇が即位してからの政情不安定により、天皇朝廷は二朝に別れ対立をしていたんだという説もある。……そこで大津父を山背・紀郡より探し出すと、大津父は、二匹の狼=大神がケンカしているのを仲裁した実績があるという。まさにこの男が必要だ、と欽明は彼を大蔵省に任命した。さらに、朝鮮半島の動乱によって流れてきた渡来の人々を管轄する秦伴造にもした(「日本書紀」)。伊呂具はどうやらその子孫である。

 稲荷といえば、狐だが、神狐・妖狐の源流はインドのダキニ天がひきつれいたドールで(上野動物園のソフトクリーム屋さんの前にいるよ)、野生犬種に乏しい東アジアでは狐に解釈されたわけで、中国大陸ではもともとキツネを「狸」字で現した。あれくらいのサイズの獣の総称だったのだ。それが日本へ伝わって……だから、ほんとのもともと、日本人に狐にまつわる思いがあったかどうか疑問である。秦氏が見かけたのも大神だったわけだし。山地においては狼=大神で、野においては夜刀=野槌(蛇)がカミサマであるから、狐というのは両者を総合するに都合のよい生態だったのかしら?。
 ダキニ天はシヴァの化身カーリーの眷属で、人の魂を喰らう夜叉であり、密教では性の女神である。当然、ウカノノミタマも女神なんだろう。そういえば、スサノヲに切られたオオゲツヒメ=ツキヨミに切られたウケモチも、伊勢のトヨウケも食物神は女神さまであった……。

 問題の弁天じしんは、もとインドのサラスヴァティというガンジス川の女神。だから本当は水鳥=白鳥が象徴なのだが、実際はクジャクに乗ってやってくる。ヒンズーでは闇の帝王ブラフマンの奥さんとなって、人の祖先を生んだ母神である……河のせせらぎを音楽にみたてての学芸神化であるという。本来は「弁才天」なのだが、音が似ているから「弁財天」とも書かれて、「才」能と「財」能を兼ね備えた。だから、「銭洗」なんてさもしい習俗も生まれたんだなあ。治水は農業にはなくてはならないが、日本の川とちがって大陸の大河はむしろ、水運としての意味も多かったであろう。


 ところで、鎌倉の弁天といえば、むしろ江ノ島の江島神社こそ有名で、琵琶湖の竹生島安芸の宮島=厳島とならび「三大弁天」と呼ばれる。(平家が宗教拠点とした厳島も弁天さまというのがおもしろい)
 社伝では、欽明天皇の十三年(所謂「仏教公伝」の年!)に神宣あって、岩屋に住む龍神を祀った。航海・海運・漁業の守護神として祀られて、沖行く船はかならずここに供物を捧げた。後世、神仏習合で弁才天があわされた。頼朝も鳥居を寄進しておるし、奥州藤原氏撃滅の祈願を行った。その際、快僧・文覚に命じて作らせたのが戦闘的な八臂の弁天像。弁天は天部の上位なのだから、戦闘的でも問題なし。やがて、仏式を廃して神式に戻ったが、弁天様は居残った。厳しい「八臂弁天像」の隣には、逆に色っぽい「妙音弁天像」が裸でビワを弾いている。こちらの来歴は知らんが、こっちが三大弁天の一柱。わざとヌードなのではなく、もともとは服を着ていたらしい。いつも想うのだが、古い仏像など、保存の意味もあるのだろうが、いつまでも塗装や服地を禿たり・シニメたりした状態のままにしておくのはどういうもんか。民間祭礼などに使うお面とかクグツなんかも、「室町以来の……」とかいって汚いのを無理矢理使っている例があるが、代々受け継ぐということは大事だが、新しく作りなおして本来の姿に戻すというのもあってしかるべきではないかなあ……お金もかかるし、正確な姿がわからなかったりってこともあるかもしれんが、新しくしたほうがよっぽどいいような気がするのだが。おっと脱線。
 
 ここで整理。最初はなんでも戦勝祈願。
 宗像=弁天=宇賀=稲荷 
 水運=学芸=農業=商売
 白鳥=龍蛇=犬狼=狐
 そしてみんな夢告、そしてみんな女神……おっと、夢に出てきたのは爺さんだった。さて、この爺さんをどうしたもんか。爺となると、宗像より、住吉のほうがシックリくる。同じような海運の神であり、神功皇后に朝鮮侵略をすすめた武神でもある。その息子・応神天皇こそ八幡様なのだから、源氏にとっては、むしろこちらのカミサマのほうが馴染みがあったんじゃないかな。どうして、源氏政権は住吉より宗像を選択したであろうか…そもそも女神は美女ではなく「婆」と解釈すれば、婆=蛇で、爺婆合体して………以下宿題。


 さてさて、時代は下って1240年代後半から50年代、第五代執権を努めた、北条時頼は、宇賀福神社のこの福水で銭を洗うということを一般にも奨励した。そもそも世俗の欲にまみれた銭を洗い清めて、まっさらにすることで、清浄なお金が入ってくる、より裕福になる……これが銭洗の起源ともいう。今でも巳の日は、とくに参拝客でにぎわう。海の平和と、田の豊穣と、技芸の上達と、それらをまとめて表現するのが「金」とはお寒い話だが、しかたがない(かな)。

 蛇=竜→狐→猫という神獣進化論 の流れからいけば、弁天さまが三味線を弾いていれば面白かった(ナンノコッチャ!)。