「イリアス」を見た方が、口をそろえて「舞台がとても美しかった」と言う。


とはいえ、舞台上にセットと呼べるような大道具はほぼ無い。


もちろん計算し尽くされた壁や床のデザイン、瞬間瞬間を巧みに切り取る照明効果、様々な要素が相まっての舞台美術に違いはないけれど、きっと、一番美しい物は人の想像力の中でしか描けないからなんだと思う。


ディズニーランドのように色彩のマジックでゴージャスに夢を見させるエンターテイメントも、極上だと思います。でも、人間くさい人間が息づく世界はきっとこんな色。リアルで、だからこそファンタジーで、時に怖いほど美しい。



そんな、いわば役者を“真っ裸”にさせる栗山演出のもと、日々カッサンドラという役に挑む。



平幹二郎さんをはじめとする偉大すぎる先輩方の背中を見つめる毎日。果てしなく大きく、どこまでも謙虚で、計り知れないほど深い、そんな背中。


誰に何を言われたわけでもなく、身にしみて感じること。たかだか数年演劇をかじっただけで、少しでも何かがわかったような気になっていた自分が恥ずかしい。


まだ、何も掴めていないのに。

何も始まっていないうちから、終わりが見えないと不安がる場違いさ。

全てが、これからではないか。


そう思うと、妙な希望さえ湧いてくるから、人間ってとことんタフにできてるなぁと少しおかしくも思える。


石の上にも三年と言うけれど、役者はもしかしたら二十年・・・いや、一生かけても一人前にはなれないのかもしれないなぁ・・・。

歌と一身同体のミュージカルをやっている時には、ここまで真っ直ぐに演劇を見据えることは難しいから、今、こんなことを強く考えています。



芝居とは自分との距離感やアプローチも違うけれど、歌はまた歌で、この指の間をすり抜けて行ってしまうことばかり。


それでも、確かに触れたという感触だけを頼りに、また歌う場所を求めてしまうから、こちらはこちらで諦めも悪く挑み続けるのです。


歌に芝居に。極めようったって極められない二つに体当たりしてるんだから、タフに生きなきゃもたないわけだ。


このような考えに立ち返らせてくれる「イリアス」との出会いは、やっぱり必然なのでしょうね。


運命があるとするならば、今日という日の生き方で如何様にも変わっていくんじゃないかと、希望的観測も込めて思います。



あせるな。くさるな。



自分への戒めに書き記す。9月11日。



あぁ、今日は9.11なんですね。

こじつけみたいで嫌だけど、日付を書こうと今確認して、「イリアス」との繋がりを感じハッとしました。こじつけかもしれないけど、ハッとした。


さぁ、明日も生きるぞ!!!