世の中には、
問題を探している人がいるんだなーと。
というか、そういう人が多い。
問題を見つけて解決すると、自己効力感を感じられるからだろうか。
先日、哲学対話に参加して、ひどかったという話は、しばらく前の投稿に書いた。
その哲学対話で、イスラエルの戦争の例を出して、「なんで恨みを手放すことができないのか?」
とか、のたまうものがいた、と書いた。
想像力の欠如だよ。
親子供が殺されたら、恨んで当然。
そんな言葉は、殺されたことのないものが言う言葉だ。
で、そのあと、
「どうしたら怒りや恨みを解放できるか?」
みたいな対話にみんなが入っていって、
「私は表現したら怒りが減った」とか、
どーのこーのとみんなが議論している。
つまり、怒りは悪いもので、消さなきゃいけないという前提なんだな。
で、
私はこう言ってやった。
「怒りを死ぬまで持っていても別にいいじゃない?
エネルギーワークとかやっていると、
怒りも愛も単なるエネルギーに過ぎないとわかる。
それに色(意味)をつけているのは人間で。
エネルギーだから、ただ感じて流せばいいだけ。
エネルギーだから、怒りは悪いものとして流れを止めようとすると、怒り以外のエネルギー、例えば、愛も
喜びも止めることになる。
これが結果的に、ウツや無気力になる」
他の人たちは、こういう話を初めて聞いたらしく、ぽっかーんとしていて、よく咀嚼できないという表情。
追い討ちをかけるように私は言う。
「怒りは愛の延長線上にあり、愛の対極にあるのは無関心だと言ったのは私の恩師の斎藤学氏ですけどね。マザーテレサも同じこと言ってるけど。
私は20数年前くらいには、ビル5つくらいぶっ壊しそうな怒りがあって、斎藤学氏にそれを言って、私の怒りをなくしたいと言ったら、
上記の「怒りは愛の延長線上にあるものだ」ということを私に言い、「治しちゃダメだ。あなたのエキセントリックなところが魅力なんだから」と言われたんですね。
その時から、私は怒りを意識しなくなったというか。
なくなったわけじゃない。受け入れたというか。
怒りと闘ってはダメなんですよ。
それなのに、スピリチュアルな連中は、ペラッペラの愛や感謝を盾にして、「せいこさんのその怒りを消した方がいいですよ」とか、くだらねー役に立たねー助言とかしてくるからね」
とか言ってやったら、
「そう言われて、怒りを消そうとしなかったんですか?」だと。
人の話を聞いとんのかーい!!
よっぽど、私の話が理解できなかったと見える。苦笑
外国語か、狂人の戯言かと思われたのかも。
しかし、
自分は正しくて、いいことをやっていると信じ込んでいる輩には、この手が多い気がする。
最後には、
怒りや恨みは持っていてもいいとしても、それを人にぶつけるのはよくないですよね
というオチに。
どうしても、悪いことを探して、それをよくするというところに着地したいわけね。
答えがないことや、世の中の常識とは違うことを語るのが哲学対話だと私は思うのだが、
道徳の授業みたいなことを話していても時間の無駄だ。
本文とは関係ないけど、
この前の金曜日は
大人のクリスマス会で、
しこたま飲んだ。
精神科医の斎藤学氏と共著。
『ヘンでいい。』(大月書店)
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