すべてがOK | 生きる喜びを伝える伝道師〜くりはら せいこのブログ〜

生きる喜びを伝える伝道師〜くりはら せいこのブログ〜

生きることは苦しみではなく喜びであるということを伝えています。
著書に、精神科医の齋藤学氏との共著『ヘンでいい。』

対話を使ったセラピー、魂のメッセージを伝えるソウルリーディング 、セルフラブグループ、笑いヨガリーダーなど、対面では東京を中心に活動中。

今日はいろんなことを考えた。

まず、この直前の投稿でバリバラのことを書き、Facebookにも同じ投稿をしたところ、くってかかってくる人がいて、なんだかなーと思った。
私はこう感じていると言ってるだけで人の感じ方や考え方を否定しているわけではないのに、なぜ自分と違う考え方があることを受け入れられないのだろう。

自己憐憫や感情に溺れていると、そこからしか物事を見れなくなる。
つまり、自他の区別がつかなくなるのだ。

オウム事件の時もそうだったな。
一緒にオウムを批判しないというだけで責められた。自分と違う考え方の人がいてもいいのに。

また最近では、私がポケモンGOを肯定するような投稿をしていたら、それについても「ポケモンGOをやっていて事故にあって死んだ人がいるんだ、それが自分の家族や友達だったらどうする?」とか言われて、はあ?って感じだった。
それこそ、自己責任じゃない。
だったら車や学校を禁止した方がいい。交通事故で死ぬ人や、イジメで死ぬ人はいっぱいいるんだから。

人の考え方や感じ方を変えさせようとすること自体が、傲慢で暴力だと私は思うのだが。

今日はまた、「seikoさんは他の人と違う考えをしている時、孤独や寂しさを感じないの?昔からそうだったの?」とも聞かれた。

孤独や寂しさというより、孤立化して吊るし上げられる恐怖はしばしば感じるが(魔女狩りにあった時の記憶)、同調圧力には絶対屈したくなかった。
また、過去生ではずっと行者や宗教者をやってきたらしく、神にだけ仕えて、山奥でずっと一人で修行していても苦じゃない。だから今生は、コミュニケーションとか場づくりとか、今迄とは間逆のことをやるはめになっているのだが。

こんな風に孤独には強かったというか、むしろ他者が自分の領域に進入してくることの方が苦手だったが、集団の中で孤立化する怖れはいつも抱いていたし、感情に溺れていたし、いい人でいたかったし、人に共感することがいいことだと思っていた。長い間。

それが変わったのは、やっぱりアカシックと出会ったからかな…。

まず、父が死んだ後、私の原家族は空中分解し、ありとあらゆる困難が私の前に立ち現れ、これは何かのカルマじゃないかと思ったことがあった。
それでかつて取材したことのあるゲリーのところに行ったのだった。
ところがゲリーは鼻でふんと笑って、「あなたのカルマは全部終わっている。あなたに今起きているのは自己憐憫だ」と。
えっ!?とビックリ。
こんな困難な状況に共感してくれないどころか、自己憐憫だって。
でも私はそれを聞いて、自分の力をすごく尊重された気がしたんだよね。

それ以降、私も安易に共感しなくなった。


今、周りを見回してみると自己憐憫している人は本当に多いなーと思う。
(私もかつてそうだったのだろう…)
私はかわいそう、私は被害者だと言いながら、人を責め、自分からは全く変わろうとしない。
(その内側にいると中々気付けないんだけどね)

またアカシックを学ぶ中で徹底的に言われたことが、正しくある必要性を手放せ、物事を個人的に捉えるな、人を操作するな、善悪はない、ジャッジしないということだった。
究極的には、嫌われてもいいと思うこと。

すべての行為の下に承認欲求がある…。
いい人になって愛されて自分の居場所を得たいという、そのための承認欲求。
正しくあれば(いいコでいれば)愛されて居場所が得られたという3歳までの記憶、もしくは、肉体レベルの過去生の記憶、サバイバルしてきた歴史、それを引きずっている。

それをずっと観察してたら(でも5年くらいはかかったかな、瞑想なんかもやりつつ)、なんかみんな承認ゲームしているだけだと分かって、もうどうでもいいやって思ったんだ。

人からどう思われても、嫌われても、その人達が自分の面倒を見て、自分の居場所を確保してくれて、自分を幸せにしてくれるわけではない。

他人の目を気にして、いい人になるのはやめて、自分の好きなことをしようと。

自分の好きなことをやってると、人がどう思おうが全く気にならなくなる。
だから私が提供している個人セッションでは、自分の好きなことをまず見つけて実行するように言うんだけどね。

人のために生きるんじゃなく、自分のために生きる。

自分を幸せにするために生まれてきた。
だから自分を幸せにしていい。
まず、それを自分に許可することから始めないと。

人がどうではなく、自分がどう感じ、どうしたいのか、そこから始めないと。

人のために生きる方がラクなんだろうな。責任をとらなくていいし、いい人っぽく見えるしね。

あと、自己犠牲こそが美徳みたいな共同幻想を人類が共有していた時期も長かったし。

でもさ、嫌われてもいいから本当に好きなことを見つけて、自分を生きた方がずっとラクだよ。
その境地に行くと、ある意味すべてがどうでもよくなる。


つまり、すべてがOKってこと。