Gilles Villeneuve Vs Rene Arnoux lap in Dijon F1 1979 best overtaking ever
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Gilles Villeneuve - Remarkable Overtakes
Gilles - For the Love of Speed
Gilles Villeneuve Tribute [HQ]
Formula Villeneuve - A tribute to Gilles Villeneuve - Part 1
エンツォ・フェラーリに見初められ、小さな体で不世出のファイターとして活躍し、
アイルトン・セナ、アラン・プロスト、ゲルハルト・ベルガー、ジャン・アレジ、イヴァン・カペリ、ミカ・ハッキネンなど、
多くのF1ドライバーに尊敬されていたジル・ヴィルヌーブ。
決してレースを諦めない、ファイター・スタイルのジル・ヴィルヌーブに私も憧れ、
1989年~1991年まで千葉県四街道市の新東京サーキットにおけるカート・シリーズに参戦。
3年間でPP1回、優勝2回、シリーズ・ランキング最高3位でした。
私は1992年~2002年まで、国内A級ライセンスを保持していました。
1982年5月8日、ベルギー土曜の予選タイムアタック中の事故により、この世を去った。
私が初めて行った海外旅行が、カナダ。
ジル・ヴィルヌーブの墓参りでした。
1989年5月7日、5月8日、5月9日の3日間でした。
ジルの命日に当たる1989年5月8日に、彼の墓を訪れました。
墓参りが終わり、帰りかけた頃、
私は あの時のことを思い出すと、今も涙を流します。
ジルの奥さん、ジョアンがいたんです。
「ジョアン!」
私は、真っ白になってしまい、必死で旅行前に覚えていたフランス語も飛んでしまい、
口を突いたのは英語のみ。
「よく来てくれましたね。どちらから?」
「日本です」
「息子さんは?(のちに、F1ワールドチャンピオンに輝く、息子 ジャック・ヴィルヌーブのことです)」
「イタリアに居るわ(当時、イタリアF3に参戦中)」
その息子 ジャック・ヴィルヌーブが生まれたのが1971年4月9日。
私の母の命日が、2018年4月9日。
しかも、ジャックが日本在住の頃、住んでいたのが目黒区の都立大学駅付近。
私にとっても、都立大学駅付近は、ゆかりのある地。
本当に運命的なものを感じる。
更には、母が亡くなった僅か3日後(告別式は4月11日で2日後)に、
小田急線で本厚木駅方面に向かった朝の電車の中で、
横にいらっしゃった方が、なんとカナダから旅行で来られていた方で、
私がなんとなく声を掛けたら、すごく盛り上がって色々会話をした。
ジャック・ヴィルヌーブが経営しているお店まで紹介して頂いた。
ジャックの誕生日のことは、今年 知ったことで、
今 思うと私の母が、カナダ旅行者と引き寄せてくれたんじゃないかと感じた。
母に感謝。
1995年のインディ500優勝時、
1997年のF1ワールドチャンピオン決定時、
いずれも涙を流した。
ジルの姿は幼少にしか見ておらず、あまり父の記憶が残っていないジャックであったが、
父の背中を追いかけ、父が成し遂げられなかったF1ワールドチャンピオンになった姿に感動した。
尚、1997年にジャックが非ヨーロッパ人でF1ワールドチャンピオンになったのが最後。
以降、2020年までずっとヨーロッパ人がF1チャンプになっている。
そのアグレッシブなドライビング・スタイルとユニークなキャラクターから根強いファンが多く、
F1引退後も、「No Jacques, No F1 (ジャックがいなきゃF1じゃない)」 といった旗を掲げるファンもいた。
ジョゼフ・ジル・アンリ・ヴィルヌーヴ(Joseph Gilles Henri Villeneuve, 1950年1月18日 - 1982年5月8日)は、カナダ・ケベック州出身のレーシングドライバー。
息子のジャック・ヴィルヌーヴ、弟のジャック・ヴィルヌーヴSr.もレーシングドライバー。
1950年[1]1月18日、カナダのケベック州モントリオールに程近いリシュリューで生まれ、近郊のベルティエヴィルで育った。フランス系カナダ人であり、フランス語を母国語とした。
青年時代まではスノーモービル競技の選手で、弟ジャック・ヴィルヌーヴSr.とともにチャンピオンを獲得した。1973年から自動車レースに転向し、フォーミュラ・フォードのチャンピオンになる。1974年からフォーミュラ・アトランティックに参戦、1976年 - 1977年と2年連続チャンピオンを獲得。当時のライバルはケケ・ロズベルグだった。
1976年9月5日にトロワリヴィエール市街地で開催されたフォーミュラ・アトランティックレースで、スポット参戦したF1ドライバージェームス・ハントを下して優勝した[2]。その後、ハントの推薦により、ハントの所属するマクラーレンとスポット参戦契約を交わした。
1978年[編集]
1979年はフェラーリの競争力が高まり、ヴィルヌーヴの生涯で最も成績の良いシーズンになった。第3戦南アフリカGP、第4戦アメリカ西グランプリ、最終戦アメリカGPで3勝を挙げ、タイトル争いに加わった。最終的にシーズン成績は2位となり、4ポイント差でチームメイトのジョディー・シェクターにチャンピオンを譲ることになるが、これには「エースドライバーのシェクターに対して、チームオーダーを忠実に守った結果」とも言われている[6]。
第8戦フランスGPでは、ルノーのルネ・アルヌーとラスト3周に、サイド・バイ・サイドの壮絶な2位争いを繰り広げた。このデッドヒートは、しばしば「F1の歴史に残る名バトル」の1つに挙げられる。同じフランス語で会話ができるアルヌーは良き友人となり、ヴィルヌーヴの死後も息子ジャックのことを何かと気にかけてくれたという。
1980年[編集]
1980年は一転して苦難の年となる。当時はグラウンド・エフェクト・カー全盛期で、フェラーリの水平対向12気筒エンジンは幅が広いためボディ横をウイング形状に成型する際邪魔になるため不利と見られていた。1979年はその欠点がさほど表面化しなかったが、1980年は他チームのマシンに比べダウンフォースを確保できない状況でシーズンがスタート。マシン自体もチームメイトのシェクターが「マシンが爆発炎上して粉々になってもドライバーを無傷で守ってくれるほど頑丈なカミオン(大型トラック)」と言い切るほど出来が悪く、ヴィルヌーヴは入賞4回・表彰台なしと低迷する。しかしそんな中でも予選でしばしば上位に食い込み、第2戦ブラジルグランプリではスタート直後にトップを走行する場面もあった。
1981年[編集]
第6戦モナコGPでは狭い市街地コースをドリフトしながら、ガードレールとの距離をセンチメートル単位でコントロールする走りで予選2位。決勝レースでもアラン・ジョーンズを終盤に抜き去り、優勝を飾る。次戦第7戦スペインGPでは後続の4台のマシンを巧みに抑えこみ、一列縦隊のまま先頭で逃げ切った。1位ヴィルヌーヴから5位までのゴール時のタイム差は僅か1秒24で、「ヴィルヌーヴ・トレイン」と形容された。これが最後の勝利となった[7]。
1982年、事故死[編集]
第5戦ベルギーGP(ゾルダー・サーキット)の予選2日目(1982年5月8日)、予選終了10分前ほどにピローニが自身の予選タイムを0.15秒上回ったのを知ったヴィルヌーヴは、再び予選アタックを行うべくコースに出た。ピローニのタイムを更新することができないまま周回を続ける中、シケインの後の長い左カーブでスロー走行であったRAMマーチのヨッヘン・マスに遭遇した。マスはヴィルヌーヴの接近に気付き、レコードラインを譲ろうとした。しかしヴィルヌーヴもレコードラインの外から抜き去ろうと車線を変更し、結果として両者は同じ方向(アウト側)に動いてしまった。この時、ヴィルヌーヴ車は時速230km/hに達していたと推定される。
ヴィルヌーヴ車の左フロントタイヤがマス車の右リアタイヤに乗り上げ、回転しながら宙に舞い上がった。マシンは前部から路面に激突して150m垂直状態のまま横転して大破し、ヴィルヌーヴの身体はシートごとマシンから投げ出され、コース脇のフェンスに叩きつけられた。現場や病院で救急隊により蘇生処置が施されたが、ちょうど支柱のあった場所に叩きつけられていたヴィルヌーヴは頚椎その他を骨折しており、その日の夜9時過ぎに死亡した。享年32歳であった。この一部始終は蘇生処置まで含めて映像として残っており、1983年の「ウィニング・ラン」、1987年の「グッバイ・ヒーロー」などの映画で紹介されている。
死後の名声[編集]
没後、カナダ人としての偉業を讃え、初勝利を遂げたイル・ノートルダム・サーキットはジル・ヴィルヌーヴ・サーキットと改名され、その後もF1カナダGPの舞台となっている。コースのスタートライン上には「Salut Gilles(やあ、ジル)」の一文が記されている。フェラーリの本拠地マラネッロにあるフィオラノテストコース近くに「Via Gilles Villeneuve」(ジル・ヴィルヌーヴ通り)があり、通りの始まる交差点の角に胸像が建てられた。
また、サンマリノGPが催されるイモラ・サーキットでは、1982年の最後のレースでスタートした3番グリッドにカナダ国旗が記され、1980年に高速クラッシュを演じたコーナーが「Curva Villeneuve(ヴィルヌーヴ・カーブ)」と命名された。このコーナーでは、1994年サンマリノGPでローランド・ラッツェンバーガーが事故死し、以後シケインに改修された。
ヴィルヌーヴが1981年から1982年にかけて付けたカーナンバー「27」は、1980年のチャンピオンチームであるウィリアムズとの交換で与えられた番号だった。当時は各コンストラクターの番号が固定化されていた時代で、新興チームへ大きい番号が割り振られており、名門フェラーリが「27」と「28」を付けるのは不振の象徴として当初は嫌われていた。しかし、ヴィルヌーヴの獅子奮迅の活躍と悲劇の死により、「27」はティフォシから「偉大な番号」として愛され[15]、フェラーリのエースドライバーを象徴するものとなった。