「天下分け目の合戦」 ~渾身の決断に見る、漢たちの魅力~ | 歴史ブログ

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過去の今日はどんな出来事があったのかを記した
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歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。



◾【天下分け目の大戦】
~渾身の決断に見る、漢たちの魅力~




三成の西軍か、家康の東軍か…。

天下分け目の戦いに臨んだ
武将たちの決断を、
後世の価値観をもって判別していては、
彼らの想いを汲み取ることは
絶対にできない。

この時代の武士が重んじた価値観とは、
「名を惜しむ」ことである。

それは、
勝つか滅ぶかの瀬戸際で
己の信念を貫いて
出処進退した者にのみ与えられるものなのです。

東西両軍を問わず、
そんな漢たちの決断は
今も輝きを全く失っていない。





◾【何故、天下を「二分」する戦となったのか】




慶長5年(1600) 9月15日、
西軍・8万4千、東軍・7万4千が
関ケ原で激突する。

決して広くはないこの地に、
東西合わせて凡そ16万の軍兵たちが
ひしめいたのだ。

耳をつんざく鉄砲斉射の轟音、
こだまする将兵たちの雄叫び、
そして馬の嘶き…。

死闘につぐ死闘を繰り広げる陣があれば、
去就を明らかにせぬまま
不気味な沈黙に閉ざされた陣もある。

想像を絶する凄絶な空気が、
その場には流れていたはずだ。

戦いの舞台は関ケ原ばかりではなく、
全国各地で東西に分かれた戦いが
繰り広げられた。

まさに日本を二分する、
天下分け目の戦いであった。

判断を過てば、己の命運も、
家の命脈も断たれかねない。

武将たちは皆、
魂が震え上がるような決断を
迫られていた。

諸将ばかりではない。
東軍、西軍をまとめる
徳川家康、石田三成の両者にとっても、
決して勝ちが約束された戦いでは
なかった。

彼らも渾身の決断のもとに、
この戦いに臨んだのである。

では、
何故、天下を二分する戦いが起きたのか。

その要因は、秀吉の晩年に遡る。

天正19年(1591)に名補佐役だった
弟の秀長が没して以降、
豊臣秀吉は「暗黒事件」ともいうべき
数々の愚行を重ねていた。

千利休の切腹、朝鮮出兵、
豊臣秀次 処断などの不祥事が
繰り返されたのである。

そんな晩年の秀吉を支えていたのが
石田三成であった。

三成は、
江戸時代でいえば側用人のような
立場におり、
側近の中でも飛び抜けた存在であった。

とはいえ三成は堕落していたわけではない。

三成には、
自分が汚れ役になってでも
豊臣家を守り抜こうという「義の心」があった。

しかし、
「今までの秀吉様と違う」と
不安を掻き立てられた豊臣恩顧の臣は、
三成の真意を知らぬまま、
三成こそが「暗黒事件」の
黒幕であろうと見なした。

秀吉の不祥事は
豊臣政権に深い亀裂を生じさせて
いたのである。

そして、
慶長3年(1598)、秀吉は死去する。

その直前、
秀吉は家康に、次のような言葉をかけ、
幼少の秀頼の後見を託した。

「秀頼の事だけが気がかりである。
秀頼が国政を執るに相応しくなるまでの間、家康殿に国政を委ね安全を期したい…」

だが三成には、
家康を後見役にせずとも
自分を中心とした豊臣政権の形で
やっていける自負心があった。

秀吉によって天下は統一されたのだから、豊臣家の世襲が当然――それが三成の考えだった。

片や、家康からすれば、
「天下はまわりもち」であった。

織田信長の死後、
その子供たちを押しのけて
秀吉が政権を打ち立てた姿を、
家康は目の当たりにしている。

しかも豊臣政権は分裂し、
一触即発になっている。
とても「乱世が終わった」とは言えない。

実力あるものが天下に号令せねばならない……
家康はそう考えたのであった。

翌慶長4年(1599)閏3月に、
五大老の一人で調停役も務めていた
前田利家が没すると、
豊臣政権内の対立はさらに先鋭化する。

加藤晴正、福島正則、黒田長政ら
秀吉子飼いの七将が
三成を襲撃したのである。

朝鮮出兵の論功などを巡り、
三成への反発が昂じた結果だった。

三成は何とか逃れたが、
騒動の責により、居城・佐和山城にて
蟄居する事となる。

慶長5年(1600)、
家康は五大老の一人・上杉景勝に
謀反の嫌疑をかけた。

そして家康は、
秀頼の命を受けた形を取って
6月18日に伏見城を発して
上杉征伐に向かう。

これは、
三成の挙兵を促す誘い水であり、
三成を叩くことで
一気に天下を掌握しようという
大博打でもあった。

一方、
三成もこのタイミングを見計らっていた。

家康が畿内を離れた間に挙兵し、
畿内を掌握した上で、
家康と決戦しようと企図したのである。

7月12日、
三成、大谷吉継、安国寺恵瓊らが集まり、
五大老の一人・毛利輝元を総大将として
決起することを決定。

家康の罪状を十三ヵ条に列記した
「内府ちがひの条々」を発し、
さらに恩賞も約しつつ、
諸大名に訴えかけた。

一方、
家康は上杉征伐に向かう途上で
三成の挙兵を聞き、
7月25日に下野国・小山で評定を開く。

ここで福島正則が、
「奸臣・三成を討つため、家康殿と一緒に戦う。」
と発言。

諸将のほとんども家康に従うことを
表明する。

その後、家康は江戸に戻り、
以後1カ月で全国の諸将宛に
「味方につけば恩賞を約束する」
という内容の
膨大な量の手紙を送る。

三成方(西軍)につくか、
家康方(東軍)につくか、
全国の諸将は決断の淵に
立たされることになったのである。





◾【東軍に与せし者、西軍に賭けし者




この時,
東西どちらにつくの決断を巡り、
様々なドラマが生まれる事になる。

先に三成を襲撃した
秀吉 子飼いの七将は東軍に属したが、
中でも黒田長政は福島正則の説得役や、
小早川秀秋、吉川広家への工作を担当するなど
積極的に家康を支えた。

長政が家康方に回った理由の1つは、
父の如水(官兵衛)が
長年秀吉を支えながら、
豊前・中津12万石という低い石高で
冷遇されたことであった。

長政自身も朝鮮出兵の際、
三成の縁者の讒言で
秀吉から譴責されている。

三成が実権を握れば、
もはや黒田家の発展は望めない。

ならば、
家康の勝利に家名の興隆を賭けようという
必死の決断であった。

長政ほどの武将であれば、
ここで家康が勝てば
天下は豊臣家の手から離れる事が
見えていたはずだ。

藤堂高虎や細川忠輿らも、
同様に徳川家の天下をつくるという
明確などヴィジョンをもって
東軍に身を投じていた。

その点、
福島正則や加藤清正らの思惑は
微妙に違っていた。

彼らは君側の奸・三成を叩けばよかった。
必ずしも徳川の天下をつくるという
意識は持っておらず、
あくまで豊臣家の天下を持続させるつもりで
いたのである。

一方、
西軍に与した大名たちの多くは、
「これ以上、家康の専横を許せば、豊臣家の将来はない。」
と考える、
豊臣恩顧の意識が強い大名たちだった。

秀吉の養女を正室にした
秀吉の一門衆であり、
五大老の一人ともなった宇喜多秀家も、
断じて豊臣家を守る覚悟でいた一人である。

不運にも関ケ原前夜に御家騒動が起こり、
重臣たちが退去して
戦力が大幅に低下してしまうが、
秀家の戦意は衰えず、
明石掃部を執政として軍の再編を図り、
西軍の中核部隊として奮戦していく
事となる。

とはいえ、豊臣恩顧といっても、
親世代と子供世代で対応が分かれる
側面もあった。

蜂須賀や九鬼、真田なども、
秀吉と縁深い親は西軍につき、
秀吉との関係が浅い息子世代は、
東軍につく決断をしている。

西軍の総大将となった毛利輝元の足下でも、
決断が分かれた。

吉川広家が安国寺恵瓊らによる
西軍支持に反対し、
毛利家の安泰を固守すべく、
家康方への接近を図ったのである。

当時の武士は、「家名存続」という
重い使命を担っていた。

のみならず、
付き従う家臣の命をも預かっている。

その意味で、
家名のために最善の手を尽くした
黒田長政や吉川広家らの決断は
見事であった。

誤解してならないのは、
家康の勝利は決して自明のものでは
なかった、
ということだ。

長政や広家は、家康に与する以上、
ぜひとも家康を勝たせなければ
ならない。

そのた為に、
出来うる限りの手を打った。

そうした結果が、
西軍の南宮山部隊の静観であり、
小早川秀秋の内応であった。

長政や広家の働きがなければ、
関ケ原の結果は大きく変わっていただろう。

一方で,
あくまで友への「信義」を貫いた
武将もいた。
代表例が大谷吉継である。

彼は上杉征伐に向かう道すがら、
三成の居城に寄り、
そこで三成から家康打倒計画を
打ち明けられる。

吉継はその不利を説き、
三成の軽挙妄動を必死で諌めた。

だが三成の意志は固い。
一度は三成を振り切ろうとした
大谷であったが、
友のために共に戦う決断を下し、
佐和山城に引き返す。

また、
吉継の与力であった平塚為広も、
吉継が起つのであればと、
日頃から敬愛する吉継と
生死を共にする事を決断したので
あった。

不利とはいえ、
大谷吉継と平塚為広も
決して勝負を捨てたわけではない。

三成に与する以上、
勝利をつかむべく、あらゆる手を打ち、
関ケ原では寝返った小早川の大軍を、
寡兵ながら押し返すという
恐るべき奮戦を見せるのである。

当時、「家名存続」のために
強者に与することは、
決して非難されるものではなかった。

その中で、あえて友のために起ち、
しかも勝つために死力を尽くした
大谷吉継と平塚為広の決断は、
一際輝きを放つものと言えよう。





◾【見事な出処進退とは……「漢たちの決断」の魅力】




天下分け目の戦いに臨んだ
武将たちの決断を、
後世の価値観でのみ判別しようとしたら、
彼らの想いは断じて汲み取れないだろう。

この時代の武士たちが大切にした価値観。
それは「名を惜しむ」ということであった。

合戦に至るまでの決断、
そして合戦での一挙手一投足の中で、
遺憾なく自らの「矜持」や「力量」を
示し得た者の「名は残る」。

多くの武将たちは、
そうありたいと願った。

関ケ原の合戦でも、
先に挙げた武将たちをはじめ、
「名を残した」者たちが数多くいる。

逆に当時の武士たちにとって
最も忌まわしいのは「力量不足」と
評価されることであった。

典型的なのは、
事前の根回しなしに寝返ったり、
日和見で決断を下せぬような
出処進退である。

同じ寝返りでも、
事前に意を通じていれば、
非難される筋合いのものでは
なかった。

東軍に寝返った武将でも、
事前に家康と意を通じていた
小早川秀秋や脇坂安治らは
所領を安堵されているが、
それなしに寝返った赤座直保や
小川祐忠は改易されている。

三成や家康も、
同じ価値観の中に身を置いていた。

三成を評価しない人の中には、
「愚かにも負けると分かっている戦いに突っ込んだ。」
と評する向きもあるが、
それは正しい見方とは言えない。

三成はあくまで勝算を立てて
挙兵しているのである。

そもそも家康と三成とでは、
石高も255万7千石 対 19万4千石と
大きな差がある。

勢力基盤が隔絶しており、
しかも、戦績も武名も
断然、家康が上である。

にも関わらず、
蟄居という境遇から挙兵して、
短時日のうちに天下を二分するほどの
一大勢力を結集し、
東軍と互角の陣立てで
家康に真っ向勝負するまでに持ち込んだ
三成の「決断」と「力量」は、
実に見事なものであった。

一方の家康も、
決して勝ちが確実な状況ではなかった。

徳川譜代の精強部隊3万8千を
息子の秀忠に預けて
中山道を西上させたが、
途中、真田昌幸との上田城での戦いに
時間を取られ、
秀忠軍は関ケ原での戦いに遅参してしまう。

虎の子の軍勢を欠く状況下、
いくら吉川広家や小早川秀秋などへの工作を
展開していたとはいえ、
西軍が待ち構えているど真ん中に
突っ込んでいくのは、
生きるか死ぬかの勝負に出る決断が
なければ、
不可能であったはずだ。

また、
予想に反して西軍が善戦して
東軍が押され気味になると、
むしろ自陣を桃配山から更に敵中へと
前進させた気迫は、
さすがに歴戦の強者の面目躍如と言える。

勝敗の読めぬ状況で、
自らの信念を貫徹し、
見事な出処進退を見せた武将たちの姿は、
実に魅力に富んでいる。

もしあの時、
あの局面に立っていたら、
私たちは果たして「名を残す」ような
判断を下せるか……

漢たちの決断の積み重ねで戦われた戦いを、
当時の視点で見つめ直せば、
また違った「関ケ原」が見えてくるはずだ。