知り合いが、「困っている人の相談を聞いているんだけど、不思議に思うことがあるのよね」と言います。
「どんなこと?」と聞くと、「困っているのに、本当に悩みを解決したいのかなぁ?」と言います。
「えっ?だって困っているんだから、解決したくて相談しているんでしょ」と言うと、「そうだと思うんだけど、あえて自分で苦しむようなことをしているようにみえちゃうのよね」と言います。聞いているこちらがとなります。
解決策的なことを提案すると、なんだかんだと「ダメ出しをするのよ」と言います。
例えば、その困りごとに「〇〇したら、△△してみたら」と言っても、何かと「それは××だからできない」「それだと□□だから無理」「そんなことしたら~になって…」などと言うんだそうです。
なので、解決を優先するというより、自分の中での絶対条件があって、その条件が成立した上での方法でなければ、本人にとっては解決策にはならないみたいな感じがすると言います。
なるほど、それで本当に解決したいと思っているのかと感じてしまうということだったんですね。つまりそれは、解決というより自分の思い通りにしたいということになるのでしょうか。
自分のその妥協できない条件をちょっと何とかすれば、その悩みの解決はそれほど難しくないのに、条件を付けるがゆえに問題が難しく複雑化して解決に至らない、悩み続ける堂々巡りになって、返って悩みをこさえちゃってるように感じると言います。
自分の妥協できない条件を取っ払えないから、悩みになると言えるのかもしれませんね。
先日も、ある人にとっての「正しさ」は厳密であり、その正しさから少しでもはみ出ると正しくなくなるというようなことを書きました。
悩み解決にあたっての条件も、自分の考える厳密な正しさも、その人にとっては絶対に譲れない、妥協できないことなのでしょう。
それは、その人らしさであると同時に、それを優先しようとうするあまり、生きにくさや、周囲との関係で軋轢や悩みになりやすいのかもしれません。
自分の中の条件や、自分のこだわる価値観を取っ払て事に当たれると、すごく気持ち的にも、生き方的にも『楽』というステキな要素が加わるように思うのですが、そう思ってできれば誰も苦労しない、悩まないってことですかね。
ウ~ン、自分でこさえる悩みかぁ、できれば作りたくないなぁ~。
ひろこ