長くなりますが、この4年という日々について少し書かせてください。(本当に長いです(泣))
2012年。僕は練習中の事故で、右耳の鼓膜を全損しました。
ほんの少しだけ残った鼓膜の切れ端に、紙を貼り付けて再生を促す簡易手術を4度受けましたが、いずれの手術も失敗に終わりました。
医者からは、もう格闘技は出来ないと言われました。(次に同じ怪我をしたら、完全に聞こえなくなる)
医者はそう言いましたが、僕は希望を捨てませんでした。
結局、全身麻酔をして、耳の後ろの細胞膜を耳に移植する手術を受けました。
結果、かなりの聴力が戻るも、完全に聴力が戻る事はなく、高音が聞こえにくい障害が残りました。
もう一度同じ怪我をしたら聞こえなくなる、というリスクは変わりませんが、それはもう考えない事にしました。
これからの失敗を恐れて、 "今" を自分が望む通りに生きられないなんて。耐えられませんでした。
耳の怪我から2年後。
再び試合に臨む事ができるようになりました。
それは、メインイベントで大会を背負うという、生まれて初めての経験だった。
しかし、心して臨んだ復帰戦で、右目眼窩底骨折というまさかの大怪我。
試合序盤で眼球にパンチを被弾して右目が全く見えなくなり、残りの試合時間はただただ絶望の時間でした。
でもその試合、どんなにボコボコにされても、どんなに苦しくても、タップはしませんでした。
何度思い返しても、どうしてあそこでタップしなかったのか不思議なのですが・・・。
あそこでタップしていたら、諦めていたら。
もう何もかもが終わりのような気がしていたんだと思う。
試合が終わってすぐ救急車で運ばれて、開かなくなった右目を機械で無理矢理こじ開けて色々調べました。自分の目が、こじ開けないと開かないなんて・・・。
あの日の事は、一生忘れないと思います。
検査の結果、完全な眼窩底骨折でした。
しかも、骨折した部位に眼球を動かす筋肉が埋没していて、眼球の動作を妨げていました。
目が開くようになった時、僕は目の異変に気付きました。
物が二重に見える・・・・
どんなにピントを合わせようとしても、どんなに頑張っても、物が二重にしか見えない。
右目の眼球は動かないのに、左の眼球は正常に動くので、物が二重に見えてしまう「複視」という症状らしい。
骨折した部位にプレート入れて、眼球の筋肉を元に戻す手術を受けました。
人生2度目の全身麻酔。
手術には毎回父親が立ち会ってくれました。
ストレッチャーに乗せられて手術室に入る時、ギリギリまで側に居てくれました。
泣きそうな声で「先生、息子をよろしくお願いします・・・」と言っている姿を見て、僕は胸が締め付けられる思いでした。
手術が終わって目が覚めると、いつも父親が一番に顔を見せてくれました。
悲しそうに笑うその笑顔に、その時初めて、もう格闘技はできないと、そう思いました。
手術の結果、大部分の複視は取れました。
ただ、全体の30%くらいの複視は残ったまま・・・。
格闘技を続けても良いけれど、プレートを入れたので、同じ衝撃が右目に加わるようなこ事があれば次は失明すると釘を刺されました。
(目が見えなくなってでも、僕は闘い続けたいのか?)
そう自問自答する日々の中、ようやく退院する事ができた。
手術が続き、長い間ジムを留守にしていました。
久しぶりにジムに戻った僕の耳に入ってきたのは、生涯忘れる事の出来ないほど悲しい出来事でした。
僕は後輩だろうと先輩だろうと、自分よりも良い技術を持っている人には教えを乞うようにしています。それは、何よりも強くなる為です。だけど、その姿を耐えられずに観ている人もいました。
その人は、僕にこっそり教えてくれました。
「コグがジムに居ない間、アイツらお前の事、引退すればいいって言ってたんだぞ・・・。」
頭が真っ白になるくらい、衝撃が走ったのを今でも覚えてます。
片岡さんにも確認したら、どうやらそれは間違いではなかったようなのです。
片岡さんはその時、「コグはそれを聞いて悔しいって思ってくれないと・・・」と言っていましたが、正直その時の会話はよく覚えていません。ショック過ぎて、頭に入ってきませんでした。
ただただショックで、ジムであんなに泣いたのは初めてのことだった。
ネットで引退しろだとか、他のジムでそう言われているのは、自分でも気付いてました。
でも、まさか自分のジムで・・・。
どうしてこんな事になってしまったのかと、ただただ日々に絶望するだけ。何をしてても、涙しか出てこない。
怪我した事よりも、試合に負けた事よりも、格闘技が続けられないって医者から言われたことよりも、
何よりも、仲間に信じてもらえなかった事が悔しくて、悲しくて。
眠れない夜が、何日も続きました。
沖縄に行ってしまった師匠である松根先生に、何度も電話しようと思いました。
何度も電話に手が伸びて、何度もそれをグッと堪えました。
でもとうとう耐えられなくなった時、パラエストラ沖縄で合宿を行うという記事を見て、僕は泣きながら沖縄行きのチケットを予約しました。
先生に電話したのは、もうチケットを取った後だった。
東京であった事は何も言わずに、ただ、
「先生。会いに行ってもいいですか・・・・」
そう伝えるのが精一杯でした。
パラエストラ沖縄の合宿は本当に楽しい思い出の連続で、東京であった悲しい出来事が吹っ飛ぶようでした。
でも、パラエストラ沖縄の皆さんの固い団結力と絆を目の当たりにして、言い知れない悲しさが胸に込みあげて来ていました。
昔は、自分にもこんな居場所があったのにな・・・・って。
みんなに隠れて、何度も泣きました。
パラエストラ沖縄の合宿には、松根先生の師匠である鶴屋さんも参加されていて、その時鶴屋さんから頂いた言葉で、僕の全てが変わりました。
その日、渡嘉敷島の空は満天の星空で。
肉眼で天の川がハッキリと見えるくらいの満天の星空の下で、さっきまで酔っていた鶴屋さんが急に真剣な表情になった。
「木暮。笑いたい奴には笑わせておけ。」
その時、まるで世界の時間が止まったかのようだった。
今までの事が全て見透かされているように、これからの事を、全て諭してくれるかのように。
あの日、鶴屋さんのあの言葉に出会えた事、それが本当に運命のように思えた。
東京に帰った後、しばらくして松根先生から電話が来た。
どうやら、ジムであった事の一部始終を人伝いで聞いて下さったようだった。
「木暮!!!!なんで俺に相談しないんだよ!!!!!!」
松根先生と出会って10年。荒い口調で話す松根先生は、初めてでした。
でも、松根先生だから話せなかった。松根先生には、心配かけたくなかった。その気持ちでいっぱいでした。
ジムに戻ってからは、言葉で言い表せないようなモヤモヤがずっとありました。
それまでは誰の試合にもセコンドや応援でなるべく駆けつけるようにしていたけれど、面と向かって「お願いします」と言われない限り、応援もセコンドも行かない事にしました。
誰が俺の事引退しろって言ってたんだろうとか、アイツは言ってたのかな・・・アイツは言ってなかったのかな・・・とか、疑心暗鬼になったりもして。
でも、
「笑いたい奴には、笑わせておけばいい」
その言葉が、僕にいつも勇気をくれました。
なんかもう、誰を信じて誰を疑ったりとか、どうでも良くなった。
そんなのがしたくて俺はジムに来てるんじゃないから!!!!!
そう自分に渇を入れて、ただただ強くなることに集中しました。
冷静になって考えてみると、自分に残されている道はそう多くない事に気付く。
格闘家の命とも言っていい目にハンデがあるとすると、もはやファイトスタイルを変えるしかない・・・。
それまでの自分は、総合格闘技において、寝技を全くやらず打撃でしか闘わないスタイルでした。
タックルを切り、寝技には一切付き合わず打撃での勝負をする!
そうやってプロになったし、プロになってからもそうやって闘ってきた。
でも、もうそれも出来ないんじゃないか・・・?
苦悩の末、僕は闘い方を180度変える決意をしました。
寝技で闘う。
それが、聴力と視力の一部を失った僕が、これからも闘っていく為に下した決断でした。
ただそれが、並々ならぬ道だった事は確かで・・・・
例えるならば、右投げの投手が右肩を壊して、左投げに転向してもう一度プロで試合するようなもの。
寝技は全くやって来なかった。
もちろん、最低限の基礎は抑えていたけれど、それはあくまで寝技から逃げる為の知識で。
それを自分の闘いに寝技として活かす思考は持っていなかった。
柔術着にも、久しぶりに袖を通す。
何もかもが新鮮で、新しい感覚のように思える。
また一からやり直し・・・。
そうやって寝技の習得に励む日々は、不思議と充実した日々になっていきました。
闘い方を変える事を決めてから1年。
「片岡さん、自分、寝技の試合に出てみたいです。」
そう言って、僕は初めて総合に活かす為の寝技を試す事にしました。
グラップリングも、柔術も。今まで自分の武器だった打撃が一切使えない闘い。
もちろん最初は、プロレベルではなく少しレベルを下げたところからスタート。
結果は優勝!
僕自身はとても嬉しかったし、僕のことをよく知っている人は祝福してくれました。
でも、一部では、「プロなのに、レベル下げた試合に出やがって!!」と、批判する人もいました。
プロのリングに一度でも上がっているのだから、そう言った批判もある程度覚悟はしていましたが、寝技に関してはもう一度アマチュアから、そしてプロのレベルまで、と考えていたので。
そういう批判からは、片岡さんもちゃんとフォローしてくれたし、なにより、僕自身が強くなっていた。
「笑いたい奴には、笑わせておけ!」
僕には、この言葉がある。
それからと言うもの、寝技が好きになった。
あんなに寝技をやらなかった自分が嘘かのように。
まだまだ実力は無いけど、努力を続けたら絶対にプロのリングでも通用する寝技になると、そう信じていました。
2015年5月31日。
耳の怪我から3年半。目の怪我から1年4ヶ月。
僕は、寝技で闘う決意を胸に、再び総合格闘技のリングに上がりました。
試合が始まってすぐ組み付き、寝技でパウンドアウトする完璧な展開で1R1分40秒でのTKO勝利。
一発の打撃も出さず、そして、一発の打撃ももらわず。完勝でした。
3年半振りの勝利は、本当に嬉しかった。そして、寝技で勝てたことが何よりも嬉しかった。
でも、正直言って、相手は自分よりも格下の選手でした。
何年も勝てていないし、長い間試合も出来ていないのだから当然なのだけど・・・。
この相手に勝って満足しているようでは、先は無いと自分でも分かっていました。
2015年9月12日(土)
本当の意味での復帰戦が決まった。
初めての国際戦、初めての金網。
当初、相手は自分と同じくらいの戦績の選手が用意されていました。当然、その相手を想定した練習も積んで、寝技での勝負の仕方もたくさんたくさん練習しました。
しかし、相手選手の練習中の怪我で、対戦相手が変更になる事に・・・。
変更された相手は、アマ10戦10勝、プロ4戦4勝。
無敗の負け知らずの選手。
スタミナがあり、打撃も寝技も出来る選手で、他団体の興行では次回タイトルマッチが決まっている選手でした。
どんな因果でこんな相手が巡ってきたのかと、運命のいたずらを恨みました。
でも、この相手に勝ったら、この相手を倒したら、
本当に自分は変われたと、胸を張って言えるんじゃないか。
そう思いました。
打撃をもらったら、ヤバイ。
それは分かってた。
でもだからこそ、勝負する意味がある!
初めて入る金網は、どこか危険な香りがして、野蛮で。
檻の中で相手とただ2人、向き合った獣みたいだった。
心臓がドクドク言ってる。
僕は本当に、変われたのだろうか・・・・?
試合の合図とともに、運命の10分間が始まった。
相手は手を合わせると同時に、ステップを踏んで広く広く使ってくる。
小刻みに頭の位置を変えながら、近いづいたり離れたり。
スタミナがある選手の特徴がステップワークに表れていた。
先手を取ったのは自分。
まずは手初めに距離を詰めてロー!
ジャブやローで散らして、タックルに入る作戦だった。
このローがもろに入り、相手よろめく。
よしっ!と思い、もう一発踏み込んでローを打ちに行ったのが失敗だった・・・
ローを放った瞬間、
ドンっ!!!!!!!という衝撃とともに、自分が後ろに倒れているのが分かった。
ヤバイ!!!!もらった!!!??
立たなきゃ!!!!!
そう思ってすぐに立ったが、足がうまく動かない。
そのまま転ぶようにして金網にもたれかかった時、
相手が飛び膝で猛追をかけてくるのが分かった。
あぁ・・・このまま終わってしまうんだ・・・
と、思いかけたその時、
体が勝手に動いた。
飛び膝で向かってくる相手に、胴タックル!
4年前の自分では、考えられなかった動き。
自然と体が動いた。
「コグさん!!!!!
テイクダウン!!!!」
その声が聞こえ、ハッとした。
すぐに相手を投げて、上をキープ。
よしっ!!反撃だ!!!
相手を立たせないように、必死でキープ。
相手も下からの圧力が強く、少しでも気を抜いたらすぐに返されてしまいそうな状態だった。
上のポジションをキープしながら、コツコツとパウンドを当てる。
終始上をキープし、1R残り30秒。
「大きいパンチ行こう!!」
セコンドから指示が聞こえた。
強いパウンドを当て、
残り10秒でのスタンドの攻防で、カウンターの膝を入れたところで1R修了の合図!!!!
1Rは確実に取った!!!!
part2 へ続く










































