雪子の国 感想 | SEAWEST

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同人ゲーム制作サークル「SEAWEST」(しーうぇすと)のブログです。


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新年あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。
缶三郎です。

2018年、最初のブログですが今回は他サークルさんの作品の感想をつらつらと書かせて頂きます。

雪子の国です。
STUDIO・HOMMAGE(http://hommage.main.jp/)制作のノベルゲーム『雪子の国』です。

先日、プレイ終わりました。数時間ずつプレイして、そこそこ時間をかけました。
とても面白かったです。思うところも心が揺さぶられることも多い作品でした。

幸いにして終わってからすぐに作者のKazukiさんと飲む機会があったので直接、感想を伝えました。

僕は口下手の話下手なんで感想はまとまりにかけ、抽象的で、断片的で、わかりにくいものだったと思うのですが、そこそこ長い時間お話しできたので、ある程度はKazukiさんにお伝えできたかなとは思います。

 

だから、こうしてブログに感想書くことを伝えた時も「もう十分ですよ」と返してもらってたんですが、まあ、これは自分のために「雪子の国」の感想は書かないとだめだなと思いました。作り手に対する称賛やメッセージ等の意味合いでの感想ではなくて、「雪子の国」を自分の血肉にするための感想です。

そんな感想は日記にでも読書ノートにでも書いておけば良いでのすけれど、
多少ひとの目に触れるであろう緊張感のもとで書いた方がより真剣に作品に向き合えるかなと思った次第です。
 

文章書くのはホントに苦手で、とても労力を使うので嫌なんですけどね……

それでも、さらっと流すべき作品ではないだろうと強く感じましたので書きます。

繰り返しになりますが第一に自分のために書くため、いわゆるネタバレ等に一切配慮する気はありません。

プレイ前の方は読まない方が良いのかと思います。
 

また、なまじ作者のKazukiさんと面識もあるし、恐らくこの感想も見てくれると思うし、滅多なことは書けないぜと普段の僕であれば思うところですが、上述のごとく自分のために書くので失礼千万で書かせて頂きます。

先に謝ります。すみません。

そして最後に、これは断る必要もない当然のことですが、これから記載することは全て、あくまで個人の感想です。
Kazukiさんに感想を伝えた中ではどうやら僕の思っていることとは違うことを考えていらっしゃる感触もあったのですが、

それも気にせず僕個人の感想を書かせて頂きます。
ご承知おきください。

では


 雪子の国、最初に触れたのは2015年の夏コミで頒布された体験版でした。国シリーズと題されており、「雪子の国」の前に2作、「みすずの国」と「キリンの国」がすでに発表されてましたので、先にそちらをプレイしました。今回は主に雪子の国に話を絞るので、前二作についてはあまり触れませんが、天狗の国という架空の世界を生き生きと描いており、そこに暮らす人たちの生活ぶりがよく見てとれる素晴らしい力作でした。少年少女のジュブナイルがキラキラと輝くような作品で、とくにキリンの国は掛け値なしに面白い、ワクワクドキドキのエンターテイメント作品でした。

 
 前2作を終えた時点ですっかり天狗の国に魅了されてしまい、間も置かずに雪子の国の体験版をやりました。
 舞台はいきなり15年後に飛びます。そこで開幕早々に、魅力的に描かれていた天狗の国(愛宕)が、ブルドーザーやらショベルカーやらの重機によって取り崩され更地にされている。国破れて山河ありなんて春望で言いますけれど、山河すら残ってねえ、山、削られてますよ。普段僕らが見慣れている資本主義社会のごく当たり前の働きによって、天狗の国というファンタジー世界が淡々と消されていく。そこに劇的なドラマはありません。鞍馬と愛宕の戦争が15年の間に起こったと言いつつもその間のことは何もわからず、酷くつまらない結果だけが残されている。そこから雪子の国はスタートします。

 まず前2作との温度差が辛い。雪子の国はとても静かで落ち着いてました。 雪子は敗戦の姫様であり、鞍馬に負け、そして人の世に負けた、負け負けのヒロイン。そりゃ性格も鬱屈するでしょうよ。
 そこに今作の主人公ハルタ君は飄々として、いまいち何考えているのかもよくわからない謎の少年。暖簾に腕押しみたいなタイプでつかみどころがない。
 こんな二人、ホオズキは引き続き出てきますが、声が出ない! AAC(Augmentative and Alternative Communication)になっとるし!
 この喪失感。天狗の国を返せ、キリンを返せ、けーすけを返せ、ひまわりを返せってなもんでした。

 でも同時に、これは紛れもない傑作……というのか美しい物語になるのだと思いました。祇園精舎の~って平家物語の冒頭を引用するまでもなく、滅んだものへの哀歌に人は胸を打たれます。少なくとも僕は打たれます。

 また作者の作品世界に対する誠実さも見て取れます。自らの手で作り出した天狗の国という世界の行く末を、きっちりと閉じて終わらせる。ファンタジーがいつか終わるのは必定だとしても、それを後日談やら、なにやらでちょろっと書いて誤魔化すのではなく、余韻のままに終わらせるのではなく、その今わの際を描ききってみせるという気概。
 

 生み出した天狗の国という作品を子どもと例えるならば、その子どもの老いて死にゆく様子をみつめるようなものでしょう。自分が先に死に、あとは子の幸せを祈りつつも自然の成り行きに任せるのが親かなと思うのですけれど、この作者はどうもそうではないようだと。となれば「雪子の国」は天狗の国に対する鎮魂の、美しい慰めの物語となるはずです。

 まあ、子どもの例えが感傷に過ぎたとして、いわゆるエンターテイメント作品という視点に立って考えてみれば、「キリンの国」とその周辺の頃が物語としての旬だとすれば、過ぎたあとの世界はエピローグに過ぎません。そこを描いていく、少なくともエンターテイメント作品としてきっちり成立させるというのであればそれは並大抵ではないでしょうし、そんなことは百も承知で挑むのでしょうからなにかしらの勝算があるのでしょう。それはなにか気になります。

 どちらにしても、雪子の国では一体どんなものを見せてくれるのだろうか否が応でも期待は高まりました。

 それから2年の月日を経って、完成版をプレイしました。面白かったです。やはり引き込まれます。個人的にすごく惹かれた所は沢山あって、北の海の重苦しい表現だとか、猪飼が追っ手から逃げて生死の境において唐揚げを食べられなかったという酷く俗な後悔をするところとか、雪子の張り詰めた感じだとか同時に透けて見えてくる人に縋らないと生きていけないどうしょうもない弱さだとか、本当に僕はそういうのが好きだし、惹かれるし心がとても震えました。

 ただ全体を通しておそらく一番強く感じたのは違和感であって、それが何かと言えば、体験版の頃に感じたこの作品は傑作だと確信した上述の点、そのいずれとも異なるものを作者は描こうとしているのではないかというものでした。これは僕の中でわだかまる思いとして、消化できずに残っています。それを少しでも、書いて晴らせればと。

 違和感を覚えたポイントは大きく3つあって、

 雲竜が生きていたこと、ホオズキを取り戻せたこと、そして東京編で家族とのいさかいを描いたことです。


 そう、雲竜! 僕は雲竜が大好きです。
 天狗の国という物語において、僕は彼の生き様こそが見たい。僕の中において天狗の国は、雲竜という人物に集約されており、それこそほとんどイコールで結んでもいいのではないかと思っているような人物です。天狗の国というのは現代文明から取り残された武家の国です。みすずの国において、みすずをはじめとした現代っ子たちがその世界に丁稚奉公に行かされて悪戦苦闘する様子が描かれてました。雪子の国においては、一度は解放されたのにも関わらず、生活を捨てて戻ってきた青年が描かれてました。辛く厳しいけれど、そこに心惹かれるものがあったからと青年は言っています。

 文明の恩恵、利便性や快適性を超えて心が求めてしまう、そこには天狗の国の持つある種の格調があるのではないかと思います。三島由紀夫が『太陽と鉄』で例えた「冬の日の武家屋敷の玄関の式台のような」というものなのかと自分は漠然と思っていますが、そういう硬質な精神性が天狗の国には色濃く残っていて、それを最も表わしている、表そうともがいているのが雲竜なのだろうと思えます。

 

 言っても天狗の国は時代の流れから取り残された溜池に過ぎず、止まった水は淀み腐っていく運命です。政治の内部は既に腐敗していて、これから国を背負って立つはずの自分の周りも堕落しきった者ばかり。そんな中で、ただ一人、頑なまでに踏みとどまって高貴を貫こうとする雲竜。清濁併せのんだ上で、それでも強くあろうとする男。敵役として非常に厄介そうだけど僕は彼を応援せずにいられません。でも実力が、ずば抜けて優秀であっても所詮は人。時代の大きな流れの前に討ち死には避けられず、彼が死に殉じようと決意して刀を抜いた瞬間こそが天狗の国のクライマックス……だと思ってたんですよ。
 ……生きていた。マジか。この時の衝撃というか違和感はとても大きかったです。


 そして2つ目のポイント、ホオズキの失踪からの救出劇。
 ホオズキの役割って作中におけるもの、メタ的なものと合わせて色々だと思うんですが、やっぱり国シリーズのアイコンですよね、icon。
 今回、雪子の国において声が出なくなったことは凄く悲しく、やがて役目を終えて消えていくことが偲ばれてとてもつらかったです。
つらいけれど、それでも天狗の国がやがて消滅するのと同様でホオズキが消えていく運命は抗えないことです。あとはそれがいつなのか、ということだけ。
 

 新幹線に乗ってハルタと雪子が里帰りする時の別れ、ああ……という感じでした。里帰りから戻ればやっぱりいないし。ホオズキを絶対助けに行くんだってハルタが息巻いていた時は、そうだそうだと同調し、なんとか連れ戻せ!と祈りました。そして、なんとか連れ戻せて、ああよかったとホッと胸をなでおろしました。
 

 でも、ですよ。僕は、仮に作者として物語を作る立場だったなら、ホオズキをあそこで彼らの日常に戻すことはしなかった。だって辛い。いずれホオズキはいなくなるんです。いつかは本当に消える時を描かないといけない。また描かないといけない。それは辛いですよ。
まだ彼らにホオズキは必要だったのかもしれないですけれど、でも、再び戻すだけの強い動機はそこに感じられませんでした。ただ固執があるだけで。ハルタと雪子はきっと、もがき苦しみながらも頑張ってやっていく。そこにホオズキがいたら嬉しいかもしれないけれど、絶対必要な存在ではないはずです。

 
 まあ、そんなようなことを作者のKazukiさんに伝えた時には、どうやら別の考えがあるようでしたし、この先の展開について僕は何も知らないので酷く見当はずれの物言いだと思いますし、
浅薄な愚考であることは百も承知で言いますが、僕は、あそこでホオズキを取り戻させたのは、作品上の要請ではなく、作者のエゴだと感じました。

 ひとりぼっちになんてさせない。俺が一緒にいてやる。と、主人公のハルタは言ったんですけど、それが彼にとっては過去の妹さんのことを含んだセリフであったことはわかりますが、そのまま別のところで、作者の声のように感じられてならなかったです。

 これが違和感の2つ目です。
 作品の内容に語ってると思ったら作者の思惑の話をしだすんじゃ、次元が違うし、まるっきりダメダメなんですけどね。これは支離滅裂な感想文なので大目に見てください。


 最後に3つ目、東京編。
 まだエピローグじゃないの!?ってか、なぜにこんな生々しい家族のゴタゴタを描くの!?と誰もが感じたであろう東京編。
 いいじゃん!大学卒業してから雪子のもとに戻りましたでいいじゃん! なぜに途中編入させるの!?
 

 天狗の国を巡る情勢が変化してるんでしょう、ハルタ本人が言うようにもちろん感情的な部分での限界もあったのでしょう、
今後の展開に向けての必要な門出の儀式だったんでしょう……

 けども! それでもわざわざ、そこを描くのかー…すげー…と思いましたよ。あっぱれと思いましたよ。もちろん読んでて人並に心えぐられましたが……

 ただ同時に、やっぱりここが決定的であったんでしょうかね。今まで上げた2つの違和感は、それだけであったのなら今後作品をやる上でいくらでも処理のやりようがあると思いますけど……
 ここまでくると、もう、なんというか作者の抑えきれない、国シリーズにかける意気込みが痛いほどに伝わってきます。

 ああ、この人は血ヘドを吐きながら国シリーズを作っていくんだなと。まだ誰も描いたことのない世界を描くつもりなんだなと。
過去の焼き増しではなくて、過去の素晴らしい作品群に習った美しい物語の再生産ではなくて、今現在を生きる僕らの、時代の問題をも取り込みつつの、誰も見たことのない最先端の物語を作っていくつもりなのだなと強く感じました。

 僕は国シリーズが美しい物語だと思っていました。
 雲竜が天狗の国を背負って死に、ホオズキが儚く消えて、残されたハルタたちは現実の日本に根を張って生き、キリンやひまわりはどこか人知れず旅に出る……END
 

 そんな話であれば、それはそれは美しい物語だったと思います。
 でも、どうやら、そうじゃない。大きな流れとしてはそうかもしれないけれど、そうじゃない部分がある。
 

 天狗の国の世界は終わるのかもしれないけど、まだ生き残る道があるのかもしれない。
 雲竜は彼のアイデンティティを失ってでも生き延び、ホオズキは消えようにも誰かが引き留め、ハルタは天狗の雪子と生涯にわたって共に生きる道を模索し続け、キリンやひまわりはどうするのか不明。
 落としどころがわかりません。ひょっとしたらまだ作者の中でも揺らいでる部分があるのではないでしょうか。

 みんなあがいてあがいて、きっと作者もあがいてあがいて、そうしてこの先の国シリーズが生まれてくるのかと思うとですよ。
 そりゃ、もう、見たい。心の底から見てみたいです。

 そう思える作品に出合えたことは本当に、幸福なことなのだろうなと思うわけです。
 この幸運に感謝もしますし、できる限りの応援をしたいなと思いますし、僕はまた違ったお話しを作らなきゃなと思ったわけです。

 以上、拙文終わりです。



ちなみに、さいごに
全然関係ないのですが、前回の僕のブログで、本来は「時々の初心」であるところを「時事の初心」だと誤って表記してますね。
なんかカッコイイこと言った時に間違えるのとても恥ずかしいんですけど、僕の人生はそんなことばっかりなので今回もきっとなにかしらやらかしていることでしょう。

 

せめて今後、作品内だけではそういうミスのないようにビシッと気をつけていきたいです。

 

という新年の決意表明です。頑張ります。
 

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