余白 | うはのそらにて

余白

電話をして、きょうの一日をまた終える。
先週末に買った、ワイヤープランツとピンクのばらの鉢植え。
それよりもっと前に買った、黄色とオレンジの花をつけた鉢植えはようやく咲き始めて、
部屋に色が挿していく。

大きな口内炎ができた。
普通の状態で居れば、舌の先が常に当たるところにあるので、
四六時中、その厄介な存在を感じながら生きている。
こういうイレギュラーなものがからだに出来ると、
つい鏡でまじまじと見てしまう。
涎も垂れる。
口内炎は、ぬらっとしたピンクの歯茎の中で、ぽつんと青白い顔をしていて見るたびぎょっとする。
単細胞生物や深海のいきもの、
とにかく真ん中に目を持つ構造で、吸盤のようなものを持った、
なにか別の生命体が口の中にとりついたみたいだ、と、一瞬だけ思う。
たとえば口内炎が何たるか、が未だ普通に広まっていなかった過去に、
初めてじぶんのからだにそれを見つけたひとは、
そんなふうにぎょっとしたんじゃないかね。


じぶんのからだで知るよりもはやく、それよりもはやく、
いま、ここにはまず情報があるんだ、なにもかも。
こういうイレギュラーなものがからだに出来ると、そんなことを考える。



手を口に当て、声を出しながらその手をパタパタさせると、
「あぽわあぽわわわわわわ…」というようなへんな音が出る、というのを

姪とか甥とか、小さなこどもが、
こないだまでやってなかったのに、今や当たり前みたいにやっているのを見るとき
ああ、この子は、じぶんのからだのシステムをまたひとつ知ったんだなと思う。

「あぽわあぽわわわ…」の遊びだけでなく、
ここをこうしたら、目玉がこっちに行ったりあっちに行ったりする、とか
ベロを素早く出したり戻したりして、これまたへんな音を出すやり方とかもね。

きっと彼らには、来る日も来る日も、知らなかった新しい発見が押し寄せて。

わたしが初めて、じぶんのからだを使って
その「あぽわあぽわわわわ…」を知ったときのことも、
ベロをぺろぺろ出したり戻したりできたときのことも、勿論覚えていない。
だから、それがどんな感覚なのかあまりよく分からない。
あっすげー、こうやったらこんな音が出た、たのしーじゃんか
というような感じかな、っていう陳腐な想像をひねりだすしかない。
だけどそのときに、
てことは、からだってこうしてみたりこうしてみたら
もっと面白い、知らないことが起きるに違いない!
って思うのだとしたら、
それは、どれほどワクワクすることだろうか、とも、想像するのだ。


大人になって、来る日も来る日も新しい発見が押し寄せるわけにはいかなくなる。
たぶん、日常、というのがそういうものだからだ。
じぶんのからだの感覚くらい、知らないものなど無いさという錯覚すらしそうになる。

だから、小さなこどもを見ているとはっとする。
わたしのからだにも、まだまだ余白がいっぱいあるに違いない。
目にも、耳にも、肌にも、舌にも、鼻にも、
あと、胸の奥のずるっとした感覚とか、一瞬の間にほとばしる感情にも。
彼らは、そんなふうに思わせてしまう。そばで突っ立っているだけの大人にまでも。たやすく。

こどもがきらきらとして見えるのは、
じぶんが完成されていないのを知っていて、
その余白の存在をきちんと理解し、きちんとワクワクしているからなのかも知れないな。

うはのそらにて

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こどもってだけで、ずるいけど、
恋愛やスポーツや、漢字ばっかりの本や、難解な映画や、お酒や、ひとりでする旅行や、
考えてみれば、まあ、大人にしかできないこともいっぱいあるな。

考えてみれば、
大人も、もっときらきらできそうですね。

うはのそらにて

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