ぼくの血となり肉となった五00冊 そして血にも肉にもならなかった一00冊 立花隆 文藝春秋社

立花隆の読書エッセイ。「ぼくはこんな本を読んできた」、「ぼくが読んだ面白い本・ダメな本」
に続く第三弾。前半は彼の仕事場でもあるネコビル(地下1F地上3Fで外壁に猫の絵が書いてある。3万5000冊以上を蔵する)の本棚を見ながら色んな本を紹介してゆく。後半は週刊文春「私の読書日記」の再掲。(私が書いてる「読書日記」と同じようなもの)立花隆は知的好奇心が旺盛なので、様々な分野の本が紹介されている。私も何冊かこれを参考に購入している。最近では著作に関しての瑕疵や取り上げるテーマを云々する向きもあるようだが、とくに理系の知識を一般に紹介した役割りは大きいと思う。個人的にいえば「サル学」などは立花氏の本がなければたぶん興味の対象にならなかっただろう。それにしても知的活動というのは、結局Input>Outputだとよくわかる。(ま、何でもそっか)

立花隆の読書エッセイ。「ぼくはこんな本を読んできた」、「ぼくが読んだ面白い本・ダメな本」
に続く第三弾。前半は彼の仕事場でもあるネコビル(地下1F地上3Fで外壁に猫の絵が書いてある。3万5000冊以上を蔵する)の本棚を見ながら色んな本を紹介してゆく。後半は週刊文春「私の読書日記」の再掲。(私が書いてる「読書日記」と同じようなもの)立花隆は知的好奇心が旺盛なので、様々な分野の本が紹介されている。私も何冊かこれを参考に購入している。最近では著作に関しての瑕疵や取り上げるテーマを云々する向きもあるようだが、とくに理系の知識を一般に紹介した役割りは大きいと思う。個人的にいえば「サル学」などは立花氏の本がなければたぶん興味の対象にならなかっただろう。それにしても知的活動というのは、結局Input>Outputだとよくわかる。(ま、何でもそっか)
黒澤明vs.ハリウッド 田草川弘 文藝春秋社

トラ トラ トラ!という映画がある。米メジャーのFOXが日米双方からの視点で真珠湾攻撃を描いた映画で、「史上最大の作戦」に続いて企画したもの。当初日本側の監督は黒澤明だったが、撮影わずか1ヶ月で降板してしまう。本書は当時通訳や翻訳などをつとめた筆者が、日米両国の資料を使い多くの人物にインタビューしてなぜ降板に至ったかを調査したもの。結論としては、黒澤自身の精神状態(もともと癲癇の気があった)、日本側の杜撰な見通し、映画づくりに関する両国の違い、などが要因で、この前年にも米国資本・黒澤監督で行う予定だった「暴走機関車」の企画が延期(結局中止)となっている。
本書を読むと、やはり米国と日本の映画づくりに関するレベルの違いは明らかである。当時より米国では映画は「産業」であり、リスク管理がきちんと行われている。対する日本では、監督に一切任せる職人芸のような手法が多く、とても「産業」とはいえない。(会社側はそれもわかっていて、リスクを下請けに出すため、黒澤プロダクションづくりをする)
しかし、そうした米国でもこうしたシステムに飽き足らず、自分で資本を出したり集めたりするコッポラのような監督や、「ゴッドファーザー」や「チャイナタウン」のプロデューサーであるロバート・エヴァンスのような人物が出てくるところが、「映画づくり」の興味深いところだと思う。

トラ トラ トラ!という映画がある。米メジャーのFOXが日米双方からの視点で真珠湾攻撃を描いた映画で、「史上最大の作戦」に続いて企画したもの。当初日本側の監督は黒澤明だったが、撮影わずか1ヶ月で降板してしまう。本書は当時通訳や翻訳などをつとめた筆者が、日米両国の資料を使い多くの人物にインタビューしてなぜ降板に至ったかを調査したもの。結論としては、黒澤自身の精神状態(もともと癲癇の気があった)、日本側の杜撰な見通し、映画づくりに関する両国の違い、などが要因で、この前年にも米国資本・黒澤監督で行う予定だった「暴走機関車」の企画が延期(結局中止)となっている。
本書を読むと、やはり米国と日本の映画づくりに関するレベルの違いは明らかである。当時より米国では映画は「産業」であり、リスク管理がきちんと行われている。対する日本では、監督に一切任せる職人芸のような手法が多く、とても「産業」とはいえない。(会社側はそれもわかっていて、リスクを下請けに出すため、黒澤プロダクションづくりをする)
しかし、そうした米国でもこうしたシステムに飽き足らず、自分で資本を出したり集めたりするコッポラのような監督や、「ゴッドファーザー」や「チャイナタウン」のプロデューサーであるロバート・エヴァンスのような人物が出てくるところが、「映画づくり」の興味深いところだと思う。
ところで「映画好き」を自認する、とくに若い方々。戦前の名作まで観ておく必要はないが、戦後のモノは観て損はないと思う。クロサワ、フェリーニ、ヴィスコンティ(など)を一本も観ずして映画を語るのは少し早い。特に日本人としては一本でもクロサワを観て欲しい。「七人の侍」「用心棒」「椿三十郎」あたりなら娯楽作品としていまだに一流だと思う。
かみそりの刃(上・下) サマセット・モーム ちくま文庫

再読。モームは1900~40年代に活躍した英国作家。1930年代には執筆料が最も高いといわれ、いわゆる流行作家だった。代表作には「月と六ペンス」「人間の絆」などがある。
作家である"わたし"はパリ滞在中にエリオット・テンプルトンというアメリカ人の知り合いから昼食会の招待を受ける。そこでエリオットの妹でルイザ・ブラッドリーと娘イザベル、そして娘の婚約者のロレンス・ダレル(ラリー)と出会う。ラリーは第一次大戦で従軍して以来定職についていない。イザベラはラリーが早く適当な職をみつけてから結婚したいのだが、ラリーは言を左右にし、就職の紹介も断ってしまう。
ついには「哲学の勉強がしたい」というラリーに、イザベラは共通の友人で富豪の息子であるヘンリー・マチューリンの結婚の誘いを受け入れる。その後、1929年のアメリカを襲った大恐慌を経て変化する人々の人生が"わたし"を中心に交錯し合う。
当時の上流から中流階級の生活の予備知識が少しあった方が読みやすいかもしれない。イギリス小説だが、主な舞台はパリ。1920年代のアメリカは今の中国のように冨と発展に満ち満ちており(エコとか環境問題もなかったし)、それを斜に見ているヨーロッパの視点も面白い。発表当時は第二次大戦中で、ラリーのように戦争で受けた衝撃によって精神的な価値を求める読者の共感を得たのかもしれない。
上に書いたあらすじのように、劇的なストーリー展開があるわけでもないのだが、脇役に至るまで人物がよく創られているので作中に移入しやすい。じつはモームの作品は、作品の構成と人物の興味で読ませるものが多い。「お菓子とビール」にしても「月と六ペンス」にしてもそういった印象が強い。夏目漱石がジェーン・オースティンの小説を賞揚したのは有名だが、イギリス小説の面白味というのはそこら辺にあるのだろう。よく考えてみれば、オースティンの「高慢と偏見」は嫁探しの話だし、「分別と多感」も姉妹の恋愛話に過ぎないのであり、時代と国が違う私たちをいまだに読ませるのが作品の構成と人物描写なのだろう。

再読。モームは1900~40年代に活躍した英国作家。1930年代には執筆料が最も高いといわれ、いわゆる流行作家だった。代表作には「月と六ペンス」「人間の絆」などがある。
作家である"わたし"はパリ滞在中にエリオット・テンプルトンというアメリカ人の知り合いから昼食会の招待を受ける。そこでエリオットの妹でルイザ・ブラッドリーと娘イザベル、そして娘の婚約者のロレンス・ダレル(ラリー)と出会う。ラリーは第一次大戦で従軍して以来定職についていない。イザベラはラリーが早く適当な職をみつけてから結婚したいのだが、ラリーは言を左右にし、就職の紹介も断ってしまう。
ついには「哲学の勉強がしたい」というラリーに、イザベラは共通の友人で富豪の息子であるヘンリー・マチューリンの結婚の誘いを受け入れる。その後、1929年のアメリカを襲った大恐慌を経て変化する人々の人生が"わたし"を中心に交錯し合う。
当時の上流から中流階級の生活の予備知識が少しあった方が読みやすいかもしれない。イギリス小説だが、主な舞台はパリ。1920年代のアメリカは今の中国のように冨と発展に満ち満ちており(エコとか環境問題もなかったし)、それを斜に見ているヨーロッパの視点も面白い。発表当時は第二次大戦中で、ラリーのように戦争で受けた衝撃によって精神的な価値を求める読者の共感を得たのかもしれない。
上に書いたあらすじのように、劇的なストーリー展開があるわけでもないのだが、脇役に至るまで人物がよく創られているので作中に移入しやすい。じつはモームの作品は、作品の構成と人物の興味で読ませるものが多い。「お菓子とビール」にしても「月と六ペンス」にしてもそういった印象が強い。夏目漱石がジェーン・オースティンの小説を賞揚したのは有名だが、イギリス小説の面白味というのはそこら辺にあるのだろう。よく考えてみれば、オースティンの「高慢と偏見」は嫁探しの話だし、「分別と多感」も姉妹の恋愛話に過ぎないのであり、時代と国が違う私たちをいまだに読ませるのが作品の構成と人物描写なのだろう。
インテリジェンス 武器なき戦争 手嶋龍一/佐藤優 幻冬社新書

元NHKワシントン支局長で外交記者の手嶋龍一と、「鈴木宗男」事件で起訴され外務省休職中の佐藤優がインテリジェンスつまり情報の収集と判断について語ったもの。(本書中の佐藤氏によれば、インテリジェンスには、*諜報、*防諜、*宣伝、*謀略、の4要素があるという)
日本の国力からすると世界有数のインテリジェンス大国になる潜在力は秘めており、現にカウンターインテリジェンス(防諜)の分野ではトップレベルだという。逆に巷間いわれている情報操作の「後藤田神話」などは道筋から外れている、と手厳しい。
日露戦争の明石元二郎の例をひくまでもなく、日本人にインテリジェンス能力がないわけではない。ただ、戦後一貫して米国に防衛を委ねてきた結果が、こうした歪みになって現れているのだろう。冷戦も終わり、北朝鮮の核問題ではじめて一般のひともリアリティをもって考えるようになっているはずだ。
佐藤優の著書は過去にも何冊か紹介しているが、このひとの出現は日本の読書界に衝撃をもたらした。今まで日本では知識人は行動力に欠けるという通念があったが、ロシアの大学で弁証法神学を講ずる知識人が、かたやインテリジェンスの分野でも一流(チェルノムイルジン露首相の更迭情報を世界に先駆けて入手、等々)の外交官だということで注目されたのだ。
外交や国家や政治、あるいは日本という国に興味がある方は、彼のどの著作を読んでも刺激を受けることと思う。

元NHKワシントン支局長で外交記者の手嶋龍一と、「鈴木宗男」事件で起訴され外務省休職中の佐藤優がインテリジェンスつまり情報の収集と判断について語ったもの。(本書中の佐藤氏によれば、インテリジェンスには、*諜報、*防諜、*宣伝、*謀略、の4要素があるという)
日本の国力からすると世界有数のインテリジェンス大国になる潜在力は秘めており、現にカウンターインテリジェンス(防諜)の分野ではトップレベルだという。逆に巷間いわれている情報操作の「後藤田神話」などは道筋から外れている、と手厳しい。
日露戦争の明石元二郎の例をひくまでもなく、日本人にインテリジェンス能力がないわけではない。ただ、戦後一貫して米国に防衛を委ねてきた結果が、こうした歪みになって現れているのだろう。冷戦も終わり、北朝鮮の核問題ではじめて一般のひともリアリティをもって考えるようになっているはずだ。
佐藤優の著書は過去にも何冊か紹介しているが、このひとの出現は日本の読書界に衝撃をもたらした。今まで日本では知識人は行動力に欠けるという通念があったが、ロシアの大学で弁証法神学を講ずる知識人が、かたやインテリジェンスの分野でも一流(チェルノムイルジン露首相の更迭情報を世界に先駆けて入手、等々)の外交官だということで注目されたのだ。
外交や国家や政治、あるいは日本という国に興味がある方は、彼のどの著作を読んでも刺激を受けることと思う。