昨日は要町へスタジオカスコーロのライブを観に行きました。何かを勘違いして千川まで行ってしまったのは別の話。爽やかな陽気の中、感情を揺さぶる舞台は強烈なものがありました。心を魂と呼びたくなったカスコーロフラメンコライブ月日東京要町スタジオカスコーロ根源的な音がした。身体の底の奥深く。魂と呼ばれる心の核心が存在すると聞いている。やけに強い酒をいきなり飲むと食道や肝臓の位置を思い出すように、生きることと唄うことが何の不思議もなく符合する唄声が、普段は忘れている魂の在りかを再び気付かせてくれる。年輪を重ねた実に男らしいエンリケ坂井の声は、低く低く振り絞る掠れた響きで、ぶ厚い動物性の皮が張られた民族楽器の太鼓のように泥臭く身体を共振させる。あぁ、カンテ。心臓の鳴る音が聴こえる。マイクも通さず、ギターもけずにトナーを唄う。立ったまま唄う姿が神聖に映る。しかしそれは儀式のようでいて、子守唄のような安心感があった。静かに目を細める。温もりに支えられながら、心のままに、ただ感じ入った。訥々と語るように生きてきたのだろうか。その証のようなカンテに支えられて、折り紙きの踊り手たちが舞い、踊る。佐藤聖子のティエントは、熱の放出が激しい。きびきびとしてメリハリがあり、それでいて艶がある。金田豊のギターと息の合ったピアニッシモで客席の集中を一点に絞り込み、バンッと喰らわせるフレーズも音楽的で素敵だ。獲物を狙うような眼光も、舞台からメートル先を射抜くようで凛々しい。ャ激Aを踊った遠藤太麻子は、その体躯を存分に活かしたサパテアードで観る者の全身に衝撃を与える。緊張が高まり、思わず一緒に足を踏まざるを得なくなりそうだ。衝撃から来る衝動に身を任せた方が、いっそのこと楽だろう。踊りに圧力があり、腕の一振りから生じる風が頬を横切るようだ。圧倒的だった。小島慶子のアレグリアス。泣いているのだろうか。それとも笑っているのだろうか。心と体がひとになっている。踊ることがひとの真実になっている。踊りながら自分の中の出来事が音を立てて進み出すかのよう。全身が輝いて観える神々しさを放アレグリアスに、なぜだか感謝の気持ちで満たされるのを感じた。この場にいることが幸せだった。その足音は、朗々と歌うようだった。縦横に駆け巡るその姿は、力強く希望が弾けるようだった。耳に心地よく響くサパテアードが印象的な、佐藤佑子のャ激A。手数が多く大胆に動く振りで目を奪う一方、繊細なメロディラインを奏でるところは熱いだけでなく冷静。玄人の薫りがして思わず身を乗り出す。隙の無い撫薰ノ見えるけれど余裕があるようにも見えて、さて一体どうだったのだろうとイメージを膨らませる。フィンデフィエスタでは遊び心たっぷりに踊ってみせ、清々しい気持ちで会場を後にすることができた。次はいやるのだろう。何度でも観たくなった。