富士山と寅さん | さよなら原発ステッカーの会のブログ

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新春早々、雪を頂いた富士を5度も拝むことができた。ただし、その次に「松竹映画」という文字が出る。(実は他に箱根駅伝でも随分見たのだが) 5本の映画のうちの1本は、正月恒例の寅さん映画『男はつらいよ第12作 私の寅さん』で、マドンナは岸惠子。
 

私は、このシリーズをさほどおもしろいと思ったことがないが、今回は半世紀も前の作品とあって、風俗(服装・暮らし)の変遷や今は亡き役者たちに会えるという別の視点からも興味深く観ることができた。その上、ロケ先が大分・熊本と身近であった。
 

あとの4本は小津安二郎の作品で(つまり笠智衆も5度拝めたワケだ)、1950、53、58、62年と年代順に観た。寅さんもそうだが、スタッフ・キャストがガッチリ固まり、〇〇組と言われた往年の映画づくりを丸一日堪能した。
 
ああ、しかし、昔の映画を観ると気になることが生じる。この当時、一方で原子力行政はどうだったのかと。
 

例えばサモアを舞台にした1926年作の『モアナ』という静謐で美しい白黒映画がある。このころ太平洋はまだ核を知らなかったんだという思いがつきまとって離れず、逝きし姿の映像をより哀しい想いで観た。1954年に原子力予算が通っているが、小津映画は4本とも具体的な原発を知らないで済んでいる。

 


『私の寅さん』が公開された73年12月(第一次オイルショックのさなかに撮られている)ごろ、日本に原発は何基あったか?5基だ。1基でも後始末に四苦八苦なのに、既に5基。それでも、せめてここで止まっていればまだしも、このとき、全国各地で工事や次なる計画が着々と進んでいたのだ。…などと思ってしまう。

最後に、個人的にショックを受けた話を。
この『私の寅さん』、1975年に職場の大きな画面で観て感想まで記していたことを発見!今回、全く既視感なく新鮮な気持ちで観て、トクしたような情けないような…。

                                     〈O〉