天才の三島由紀夫の最後の小説である「天人五衰」(てんにんごすい)を、先日は彼の天才性及び割腹自殺への動機の観点から瞑想した。だがこの作品自体が優れたものであるので、本日は作品自体の分析を行う。

 

三島は常々「不正確な言葉はたとえ文学でも許されない」と言う、厳しい心構えを主張していた。言葉は数字と異なって幅と言うか一定の恣意性があるので、これはあまり厳しく主張すると文学が成り立たなくなってしまう。私がむしろ感心したのは、この小説に見える計算し尽くされた構成である。

 

小説は清水港の景色、すなわち打ち寄せる波や平らな海面、そしてそこを横切る船跡のありようから始まる。清水はこの小説の前半の舞台であるが、この静かな海面を乱してまっすぐ伸びそして消えていく航跡、この静けさと小さな擾乱は、この小説の全体雰囲気を暗示していて、上手い導入である。

 

この物語の主人公の1人でありまだ16歳の安永透は、この港で職として船舶の信号案内をしている。彼には狂女の彼女の絹江が居る。ある日、連作全体の主人公である本多老人が偶然からここを訪れる。そして安永を旧友の松枝の輪廻転生だと確信して、彼を養子にもらい受ける。

 

ところが安永は頭脳明晰な皮肉屋である。望遠鏡から見える客観的な世界以外はすべて仮想であって、たかだか罵倒されるために存在していると確信している。そして本多を「ジジイ臭い」と言うそれだけの理由で、感謝するどころか罵倒して毛嫌いしいじめ抜く。

 

ところが本多の内妻の慶子が、安永は輪廻でない偽物だと見抜いて、完膚なきまでに言い負かす。そして実は内心気づいていた安永は、意趣返しに服毒自殺をするが未遂に終わる。結果として盲目になりながらも、誰よりも醜い絹江を愛し続けて、みじめな隠遁生活の後に死ぬ。

 

失望した本多老人は、彼自身若いころは頭脳明晰で尊敬される裁判官であったものの、今は見る影もなく衰えて自分の死におびえるだけの存在である。そしてすべての本当を知るために、松枝の元恋人で今は出家して門跡となった聡子を訪ねる。この後の結末は先の記事に述べたとおりである。

 

こう荒筋をたどってみて驚くのは、この小説の無駄のなさである。どんな小説でも大抵は、ことさらに意図しなくても膨らし粉が入っていて、「あれ、たったこれだけの話かよ」と言った部分があるものだが、三島の小説には天才の名に恥じずにこの無駄がない。

 

つまり言葉を数学的に使う以上に、筋書きの無駄のなさが数学的である。まあ話の前半の海運信号の手続きに関する詳しい説明や、強いて言えば天人と言う一点でかろうじてつながる三保の松原や日本平の細かい解説は、一見不要に見える。

 

しかしどこかにこのような詳細な一種の蘊蓄を挟むことは、その具体的な内容はどうであれ話の流れ全体を制御している。つまりともすれば空想に終わりそうな主題に、あえて現実性を加味するのに不可欠な要素である。実際にこの部分を読んでいて飽きなかった。

 

この作品に典型的にみられる三島のもう一つの天才性は、連打されるちょっとした気づきの、深さと意外さである。彼は理系ではないが、その発見の鋭さはあたかも数学の定理を発見するかのような気づきだ。そんな気付きが満載なので一々挙げ切れないが、あえていくつか挙げてみよう。

 

「この潔癖で美しい少年、これこそ純粋の悪であった」「死を含んだ時が突然かすめ過ぎた」「安永透は金よりも実権を奪うことを企んでいた」「偶然と言うのも愚かな偶然である」「海辺の海藻のいやらしさ」「家政婦のあいさつで耳に焼き鏝(こて)を当てられた」。

 

「海はほとんど性的だ」「無歴史的な物がこの闇に居る」「はがれたポスターや電熱器のような電光広告の景色が押し付けがましかった」「傷つける値打ちのある存在」「良家の女性との縁談に気分が笹くれ立った」「自分より長生きする家畜は愛さない」。

 

まあこう言った私のような素人には半可通な、だが見過ごせない迫力と雰囲気を持った表現の、これでもかのオンパレードだ。しかも衒学のいやらしさは全くない。おそらく三島は、作品中に用いたよりもはるかに多くの、こういった一場面の切り取りのストックを持っていたことだろう。

 

なお解説書によると、この作品を含む大叙事詩「豊饒の海」の三島自身の創作メモが残っている。当初の予定では安永に当たるキャラは「本当の輪廻であってかつ先立つ輪廻転生者と同様に20歳で死に、本多もそれを見届けるというハッピーエンド」の予定だったと言う。

 

もちろん「計算の三島」と言であっても、筆が進むうちに気が変わることもあるだろう。だがあえて真逆の不幸に持って行ったその裏側には、彼のこの世に対する救いようのない失望と死の予感があったのかもしれない。