テキサスの荒馬・テリー・ファンク。私が少年時代に憧れていてプロレスラーだ。

 

私はテリー・ファンクに憧れてプロレスラーになりたいと夢を見た。

 

テリーの人気はプロレスラーの枠を完全に超えていた。会場には親衛隊がいて、チアガールが声援を送っていた。

 

兄のドリー・ファンク・ジュニアと弟のテリー・ファンクのザ・ファンクスは、入場する時はいつもファンにもみくちゃにされてしまう。

 

入場テーマソングのスピニングトーホルドが終わってしまうのではないかと思うほど、なかなかリングに上がれない。

 

少年ファンが感極まって抱きついても、テリーは満面笑顔で肩を抱く。折り鶴をテリーの首にかける女性ファンもいる。

 

ザ・ファンクスの試合前はリング上が紙テープだらけになるので全部リング下に落とすのが大変だ。

 

とにかくテリー・ファンクはものすごい人気だった。

 

 

ザ・ファンクスは日本プロレスでジャイアント馬場とアントニオ猪木のBI砲と試合をしたこともある。

 

1972年にジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げしたが、旗揚げ当初からザ・ファンクスは全日本プロレスに参戦した。

 

テリーの人気が絶対的なものになったのは、1977年の世界オープンタッグ選手権だ。

 

優勝戦で、史上最悪コンビと恐れられたアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークと対決したザ・ファンクス。

 

ブッチャーがフォークでテリーの右腕をメッタ刺しにして観客席から悲鳴が上がる。

 

テリーは大流血して右腕を負傷。ドリーはブッチャーとシークに二人がかりでやられている。

 

その時、不屈のテキサスブロンコ・テリー・ファンクがシークの頭部に左の拳を叩きつけ、シークが吹っ飛ぶ。

 

ブッチャーの頭にも左のパンチを連打して大歓声。

 

最終的にブッチャー、シークの反則負けでザ・ファンクスが優勝したが、この試合でテリー人気は急上昇した。

 

 

テリーはアメリカではヒールでそんなに人気がなかった。しかし日本ではスーパーアイドルだ。

 

ミル・マスカラスはメキシコでもアメリカでも日本でもスーパーヒーローだから、同じ人気者でもテリーとは少し違う。

 

人間、急激に人気が上がると、マイナス面も出てくる。

 

 

オープンタッグの因縁があるから、テリーVSブッチャーの血の抗争は70年代の看板カードになった。

 

1979年の世界最強タッグ決定リーグ戦の優勝戦。私は蔵前国技館で観戦した。

 

ザ・ファンクスVSブッチャー、シークの因縁の対決再びだ。

 

ラストシーンは忘れもしない。シークがドリーを羽交い絞めにしてブッチャーが助走をつけての地獄突き・・・と思ったらドリーがよけたため地獄突きがシークの喉に誤爆。

 

ドリーはそのままシークをピンフォールし、ザ・ファンクスが優勝した。

 

怒りのシークはブッチャーにまさかの火炎殺法!

 

私は初めて火炎殺法を生で見た。鮮やかなオレンジ色の光が見えた。ブッチャーは場外に転落してのたうち回ったが、シークがもう一度火炎殺法!

 

ついに史上最悪コンビが仲間割れした。

 

 

ブッチャーが新日本プロレスに参戦すると、テリーの新たな強敵がスタン・ハンセンに変わった。

 

81年の世界最強タッグ決定リーグ戦に、新日本プロレスのトップ外国人レスラーだったスタン・ハンセンが乱入し、テリーをウエスタンラリアットで完全KOしてしまった。

 

スタン・ハンセンはファンク道場の生徒だったから、まさに恩を仇で返す形だが、スタン・ハンセンは本当の恩返しをしようとしていた。

 

「テリー・ファンクは尊敬してるよ」と語るスタン・ハンセは、テリーが強いうちに引退に追い込むことが自分の役目だと豪語していた。

 

NWA世界王者時代のテリーは間違いなく実力者だったが、段々とオーバージェスチャーが過ぎ、無駄な動きが目立つようになった。

 

ファンとしては認めたくなかったが、客観的に見ると不自然だった。

 

例えばコーナーに飛ばされるとテリーは派手に大回転して場外に転落し、錯乱状態になったようなポーズを取る。

 

右ジャブ連打からの左ストレートはテリーの良さが出ていたが、小学生の喧嘩のように腕をぐるぐる回すような殴り方をしたり、ロープに絡まって蹴りまくられたり。

 

私の周囲でも「テリーは錯乱状態になればいいと思ってんだもん」という悪口を耳にするようになった。

 

テリーがピンチに追い込まれると女性ファンから悲鳴が上がる。悲痛なテリーコールが会場全体を覆う。

 

アメリカではヒールで不人気のテリーにとって、日本の大歓声は特別なものだったと思う。

 

不自然なオーバージェスチャーは、もしかしたら人気が出過ぎたことによるマイナス面なのかもしれない。人気は魔性だ。

 

始めから声援を求めていないヒールはその点強い。

 

 

82年の世界最強タッグ決定リーグ戦でザ・ファンクスがV3を果たしたが、喜べない反則勝ちだ。

 

ブロディとハンセンのミラクルパワーに完全に押し込まれたザ・ファンクス。

 

場外でハンセンがテリーをウエスタンラリアットで完全KOし、リング上ではブロディがドリーにキングコングニードロップ!

 

そのまま行けば優勝できたのに、ブロディがドリーを羽交い絞めにして、ハンセンが左腕を上げる。悲鳴と歓声が交差する。

 

ジョー樋口レフェリーが制止するがハンセンはウエスタンラリアット!

 

ドリーをKOしたがジョー樋口までKOしてしまった。すぐにサブレフェリーの鉄人ルー・テーズがリングに上がったが、ハンセンはルー・テーズにも暴行して反則負け。

 

優勝したのはザ・ファンクスだが、ブロディ、ハンセンのほうがザ・ファンクスよりもはるかに強いことは、誰の目にも明らかだった。

 

私は、少年時代にカッコイイと思って憧れていたテリー・ファンクよりも、本当に強いブルーザー・ブロディやスタン・ハンセンのほうに興味が向いた。

 

年齢が重なるとプロレスの見方も変わるのかもしれない。

 

それでも83年8月31日のテリー・ファンクの引退記念試合は観に行った。テリーは膝を悪くしてもう限界だった。

 

蔵前国技館にもチアガールがいた。ザ・ファンクスの対戦相手はスタン・ハンセンとテリー・ゴディだ。

 

ハンセンはもちろん引退試合だからといって花を待たせようなんて思わない。始めからテリーに殴る蹴るの暴行を加えた。

 

膝を痛めて引退するテリーの膝を、ハンセンとゴディは徹底的に攻めた。

 

しかし、最後はテリー・ファンクがコーナーポスト最上段からのダイビングローリングクラッチホールドでテリー・ゴディからピンフォールを奪った。

 

見事に引退試合を飾ったテリーだが、引退してから膝が良くなったテリーは84年に復帰する。

 

 

復帰後は、ザ・ファンクスVSザ・ロード・ウォリアーズという夢のカードも実現したが、やはりパワーで押し込まれて衰えは隠し切れなかった。

 

強いうちに俺が葬るというスタン・ハンセンの気持ちがわかったような気がした。

 

なかなか引き際は難しい。

 

テリー・ファンクが輝きを放っていたのは70年代だと思う。80年代はブロディ、ハンセン、ザ・ロード・ウォリアーズなど本当に強いプロレスラーが人気者になる時代に変わっていった。