1997年10月11日、東京ドームで開催されたPRIDE1のメインは、高田延彦VSヒクソン・グレイシー。
ヒクソンはバーリ・トゥード・ジャパン・オープンという公式な大会に94、95年と2年連続で参戦し、無敗の2連覇を達成した。
400戦無敗は決して誇張ではないと思わせる戦績を見せた。
安生洋二も道場破りに行ってヒクソンと闘ったが、血まみれにされた。
ただ、ヒクソンが日本のリングで高田延彦や船木誠勝のような団体のトップと試合をするのは、高田延彦が初めてだった。
ヒクソン・グレイシーは入場の時もリングに上がってからも冷静沈着。全く緊張していないように見える。
対する高田延彦の体調は万全ではないどころか最悪のコンディションだった。
ゴングが鳴った。ヒクソンは両拳を上げることなく、しかも顎を上げて高田に迫っていく。これには驚いた。
普通は両拳を上げて顔をガードし、顎を引くものだが、ヒクソンは相当自信があるのか、顎を上げて接近していく。
高田はヒクソンの周りを回る。ヒクソンが高田をコーナーに追い詰めて右ジャブ。高田も回り込んでローキック。
ヒクソンが高田をコーナーに追い込み、抱えようとするが高田がロープをつかんで粘る。ヒクソンはレフェリーに抗議した。
高田に注意1が与えられた。
リング中央。高田はキックを見舞うがヒクソンが高田を捕まえると高々と持ち上げて腰から落とし、上に乗る。
防御する高田だが、ヒクソンはボディにパンチを打ち、ギロチンチョークで攻める。
防戦一方の高田。ヒクソンが腕を取って腕ひしぎ十字固め。即タップ。試合は終わった。
プロレスファンは呆然自失。言葉を失う。
ヒクソン・グレイシーはあまりにも強かった。
マスコミは「プロレスが負けた」「プロレスが死んだ日」「プロレス最強神話崩壊」と書き立て、高田延彦は「A級戦犯」と言われた。
2020年の今振り返ると、嬉しさも込み上げるような複雑な心境にかられる。
今、仮にRIZINのリングでプロレスラーが負けても、絶対にそんな騒ぎにはならない。
1997年当時は、まだそういう時代だったのだ。プロレスが最強の格闘技として重んじられていた。
それは異種格闘技戦で連戦連勝したアントニオ猪木や、リングスで最強だった前田日明の功績が大きいかもしれない。
高田延彦がヒクソン・グレイシーに敗れた時、アントニオ猪木や新日本プロレスのトップレスラーは、高田延彦が負けただけでプロレスが負けたわけではないという趣旨の発言をした。
長州力も、新日本プロレスの選手がヒクソンとやれば、オレでも中西でも誰でも勝てるという発言をしているが、ショックを受けたプロレスファンに対する励ましかもしれない。
一番プロレスLOVEを感じたのは前田日明の言動だ。
試合後、前田日明は完全にブチ切れていて、プロレス記者たちを怒鳴り散らした。
「どうすんねん。プロレスが負けたぞ。どうすんねん。あんたらこれでメシ食ってんやろ。舐めてるとぶち殺すぞこらあ!」
そして、俺がやってやると、前田日明はヒクソン・グレイシーと闘うことを表明した。
俺がやれば勝てると口で言うのは簡単だが、見るとやるでは大違いだ。ヒクソン・グレイシーは紛れもなく世界最強クラスのファイターだ。
前田日明は口だけではなく、実際にヒクソン側と交渉し、試合を実現しようとした。しかし、この夢の対決は幻に終わった。
ヒクソン・グレイシーはPRIDE4で高田延彦と再戦し、完勝。その後も2000年に船木誠勝をチョークスリーパーで落とした。
やはり強いのだ。
グレイシー狩りで一躍スーパーヒーローとなった桜庭和志と対戦したらどうなっていたか。この試合は観てみたかったが、実現しなかった。
1993年に、UFCの大会が行われ、ホイス・グレイシーが優勝した。驚くことにこの時は素手で闘っていた。
高田延彦はUFCを見て「これを日本でやられたら、プロレスが危ない」と思った。プロレスラー高田延彦の直感だった。
昭和の時代、メジャーの格闘技はプロレスのほかに、ボクシングやキック・ボクシングや空手で、いずれも打撃だけなので、プロレスリングとは別競技といえた。
ダウンする相手を攻撃できる過激な格闘技はプロレスだけだった。最も喧嘩に近いというのがプロレスの売りだった。
しかし、総合格闘技はプロレスに近いスタイルで、プロレスよりも過激だ。高田延彦が言わんとしていることは、私にもわかった。
昭和と違い、今の日本人は総合格闘技を観ている。
プロレスはショーで総合格闘技がリアルファイトなんて言わせてはいけない。
中邑真輔がボブ・サップに言った言葉を思い出す。
「K-1とかさあ、総合とかさあ、オレよくわかんないんだけど、あんまし舐めんなよ。一番スゲーのは、プロレスなんだよ!」
このプライドを、プロレスラーは捨てないでほしい。プロレス最強は言葉ではなく、リングで、試合で証明するしかない。