錦瑟(作・李商隠  812年~858年)


錦瑟無端五十弦

一弦一柱思華年

莊生曉夢迷蝴蝶

望帝春心托杜鵑

滄海月明珠有涙

藍田日暖玉生煙

此情可待成追憶

只是當時已惘然



錦瑟はしなく五十弦
一絃一柱に華年を思う
荘生  暁の夢に胡蝶と迷う
望帝  春心を杜鵑に托す
滄海の月明らかにして珠に涙あり
藍田の日暖かにして玉は烟を生ず
この情  追憶となるを待つべきか
ただこれ当時のことすでに惘然



   もう奏でる人のない琴が、部屋の中に静かに横たわっている。伏羲(ふくぎ)が奏でることを禁じた、五十弦の琴のように。

その琴の一弦一柱に、僕は君との幸せな月日を思い出す。


   荘子は夢で胡蝶になり、目覚めて荘子が胡蝶の夢かと疑った。

   望帝は道ならぬ恋を忍んで国を去り、その深い想いは血を吐き啼く杜鵑(ほととぎす)になった。


   月明かりに照らされる蒼海の、また陽射しに輝く玉山のような君の琴の音色を思い出すと、月の海に人魚の涙珠が浮かび、陽の中の玉(ぎょく)は煙をなして焦がれていく。


   けれどこの夢現のような悲しい想いは、君を失った追憶の中から生まれたものなのだろうか。


君がいた時からすでに僕は、夢と現実の狭間にいるようだった。




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※伏犧は神話の皇帝。五十弦の琴の音色のあまりの悲しさに 、伏犧はその琴を打ち壊したという。

※望帝は神話の皇帝。臣下の妻と道ならぬ恋に落ちた望帝は、それを恥じて自らの治める蜀の国を去った。杜鵑(ほととぎす)の嘴の中は赤く、そこから杜鵑は血を吐きながら鳴くと日本でも言われているが、望帝のその苦しい思いが、血を吐く杜鵑の鳴き声になったという。(蜀が秦に滅ぼされたことに因む杜鵑伝説もある。)

※蒼海は仙界の海。

※玉山は仙界の山。藍田山は玉を産する現実の山だが、ここでは伝説の玉山にみたてられ、俗界と仙界が重って描かれる。



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李商隠のこの有名な詩は、亡き妻を偲ぶ歌といわれている。彼の妻が愛奏した琴が出てくるので、僕も間違いなくそうだと思うけれど、望帝の逸話が入っているので離別した恋人のことを歌ったものかもしれない。またもしかすると、望帝同様に道ならぬ恋だったか……。人それぞれの人生の中で異なる捉え方ができると思う。

ただ、亡き妻を忍ぶ歌という意味では「房中曲」のほうが心にまっすぐに響いてくる。


 「錦瑟」では、李商隠の眼差しの中で現実の琴と神話の琴が重るところから始まり、夢と現実の区別がつかなくなる胡蝶の夢の話を扉にして、愛する人への想いと追憶は神話の世界へと入っていく。伝説の望帝、月明かりの仙界の海、月の光と人魚の涙で生まれる真珠………そして仙界の玉山と現実の藍田山が重なり合っていく中で、想いは現実の李商隠へと戻っていく。李商隠はその自らの想いをみつめ、詩は終わる。


亡き妻について歌ったにしろ、この詩には、夫婦の情愛というよりは愛する人への深い慕情が顕われているように思う。



李商隠の生きた唐の末期は、国が衰えていく中で、官吏たちの権力争いが混沌と激化していった時代だった。高い志は意味をなさなくなり、世渡りの巧みさや派閥の論理のみが重視されるようになっていた。下級官吏の家に生まれた李商隠は、その派閥争いに巻き込まれて木の葉のように翻弄され、またその世渡り下手も災いし、官吏としては不遇のまま生涯を終えている。しかしその詩は高く評価され、白居易も彼の詩を愛したという。


恋多き李商隠の詩には「真情」があると言われる。幻想的で艶かしく耽美的だが、そこには確かに虚飾ではない真情があると、浅学ながら僕も思う。







追伸
  日本語訳は僕の意訳ですが、訳も注釈も高橋和巳の注釈を元にしています。漢詩は好きですが、自由気儘に読んでいるだけなので、興味を持った方は是非岩波書店から出ている中国詩人選集「李商隠」(高橋和巳注釈)を読んでみてください。ほかにも李商隠の専門書はあります。