映画のネタバレがあります。映画をご覧になった後でお読みください。

【蜘蛛女のキス Kiss of the Spider Woman】
      1985年、エクトール・バベンコ監督作品。ホモセクシャルの男性モリーナと、革命家の政治犯の男性ヴァレンティンによる密室劇。後者は異性愛者であり、まったく同性を恋愛対象にはしていない。むしろ嫌悪していると言ってもよいかもしれない。しかし次第にモリーナの優しさに、微かながらも惹かれ始める。しかしそれは恋愛の情ではない。それは何なのか。同情、憐憫?たしかにはじめのうちはそうだったかもしれない...


 モリーナの男性に対する理想は高い。威厳ある美しい外見、それでいてそれを鼻にかけない品格を有した男。ヴァレンティンは権威に服従することを嫌い、他人を見下さない禁欲的理想主義者だ。自分の欲望を抑え、組織の目的達成を第一義と考える。この二人は正反対に見えるが、互いの意識のなかにどこか、共通するものを持っているような気がする。
 モリーナは女性として高い美意識を持ち、自己のフィルターを通して映画を語る。モリーナ自身認めているように彼、彼女?自身の脚色で、である。ヴァレンティンは時折苛立ちながらもモリーナの描く世界に陶酔するのである。イデオロギーとは無縁の、女性の目を通した審美的世界に。
 敵であるナチスの士官に恋するフランス女性レニの顔は、ヴァレンティンが愛する、ブルジョア階級に属するマルタの容貌と化す。ファシズム、そしてレニの道ならぬ恋を嫌悪しながら、ヴァレンティンは自分の姿とレニを重ね合わせる。そして別の映画。傷だらけで島に漂着した男を抱き抱え涙を流す蜘蛛女。なぜ彼女は泣くのか。ヴァレンティンがモリーナに訊く。
 男はヴァレンティン、蜘蛛女はモリーナである。蜘蛛女の流す涙はモリーナの涙。また同時にヴァレンティンの想像のなかでのマルタである。しかしあくまで想像のなかの存在であって実際のマルタではない。



 これは悲しい物語である。悲しい?果たしてそうなのだろうか?

 もともとは収容所長によってスパイとして同室に送り込まれていたモリーナだが、結局は愛する者ヴァレンティンのために死ぬ。そこに悔いはない。一方ヴァレンティンは拷問の後、モルヒネの夢のなかで、マルタに手を引かれ刑務所から脱出する。一瞬モリーナのことがヴァレンティンの頭をよぎる。モリーナから受けた純粋な愛情は彼のなかから消え去ることはない。しかし、マルタの手を振り解くことはない。そしてマルタとともに海へ漕ぎ出していく。しかしこれは短い夢に過ぎない。いずれは醒める儚い夢。想像のなかでマルタが言うように短いけれど幸せな夢。
 ああ、悲しい。私たちは感情的に悲しさに浸り、悲しさに浸る自分自身に満足しながら感涙に咽ぶ。エンドロール。映画は終わる。さあ、どこかでビールでも飲みながら食事でも摂るとしよう。
 一方で私たち自身の生はどうだろう。やはり短い夢に過ぎないものだとは言えないだろうか。しかしわたしたちの生は本当に幸せな夢なのだろうか。
 モリーナとヴァレンティン。彼らは自らが信じるもののために、間違いなくそれぞれの生を燃やし尽くしたのだ。