山親父の日記 -551ページ目

ラグビー人生22

国体が終わるといよいよシーズンが始まりました。

京都は体育の日にラグビー祭があるため、秋に二回トーナメントがあります。

ほぼ毎週試合がありました。

それと平行して、平日に岩倉の同志社大学のグラウンドに出稽古に通うようになります。


同志社の一年生を中心としたチームと練習試合を組みました。


ここで私の弱点が露呈します。


ディフェンスです。
タックルなんです。


伏見は今も低く突き刺さるタックルが持ち味ですが私は正直恐くて苦手でした。

それまで高校生相手ならなんとか誤魔化してこれましたが、大きくて強い大学生相手に通用しなかったんです。


今でもなぜあの時もっと勇気を持たなかったのかと思います。


言い訳をしたいところですが、このトラウマは大学に行ってすぐに、ある先輩の何気ない一言で解消します。その話は大学編で。


ここに1人絡んできます。1学年下の杉○しんじです。彼はその後同志社ー神鋼に進み活躍しました。


彼にポジションを脅かされ、結局全国大会中まで争います。


彼が読んだら気を悪くするでしょうが、自分でいうのもなんですが、全体的に見て、どちらが(上手いか)と言えば私に分が有ると思います。


フォローに走りボールを生かす繋ぎをしたり。密集での細かい仕事や、ラインを読んで穴を潰したり。スクラムやラインアウトも安定していました。勿論全然タックルに行かない訳ではないですし。




しかし大事な一点、チームの為に体を張れるかどうかという点では、完敗でした。

彼はこの時高校一年生です。3つも4つも上の大学生に頭から突っ込んでました。


今のように戦術的交代のない時代です、どちらかが出ると、もう1人はベンチを温めました。


先生も悩んだのではないですかね、大事なところで抜かれる私と、私なら確実に内にフォローして繋ぐ場面で人が足りずに、チャンスをいかせなかったり。

そうしているうちに、京都府予選を難なく突破して。


次回いよいよ花園です。二回に分けなきゃ無理かも。

ラグビー人生21

高校2年の年、国民体育大会は栃木県で行われた栃の葉国体でした。

京都代表は伏見のメンバー単独チームにしたかったようなんですが協会の横やりにより山城高校からひとりだけ参加して、合同チームとしました。


大阪代表は大工大単独チームだったと思います。


両チーム順調に勝ち進み、近畿大会に続き決勝で対戦します。


この時も緊迫した接戦でした、お互い1トライ1ペナルティーゴールを取り、京都がもうひとつペナルティーゴールを追加して、10対7で試合は膠着します。


このまま試合が終わろうかという場面、自陣ゴール前のPKを誠二さんがタッチに蹴りだしたら終わりだったんですが、ノータッチキックになりました。


キックチェイスした両ロックの田中さんと私、ゴール前にハイパントを上げた選手にチャージにいき、ジャンプしたんですが、着地の時に相手に触れてしまいます。


レイトチャージでした。
ボールが落ちた地点のPKを東田さんが難なく決めたときノーサイドのホイッスル。

10対10引き分けました。

両チーム優勝となりましたが、京都は負けたような落ち込みでした。


誠二さん、
「俺が確実にタッチ切っておけば勝てた。」と、


最後に反則を犯した私たちを責めませんでした。


この大会で、私は大きく伸びた実感が有りました。

1つは自分のプレースタイルの方向が確立したこと。全国レベルではロックとして、決して大きくない私は、二次攻撃から三列の選手の様にフォローに走り回りました。ディフェンスの時もWTBの外まで走りました。


2つ目は、大会中少年男子は、大会が終われば公団住宅として使われるのであろう、普通の団地にチーム毎に宿泊して、集会場のような場所で、仕出しの弁当を食べるんですが。


冷めている上にあまり美味しくなくて、食欲を無くす選手の中で、人の分まで平らげて、毎日試合をしているにも拘わらず、私ひとり大会期間中だけで体重を3キロも増やして86キロまで大きくなっていました。


3つ目は、三回戦の雨の中での大分戦、結構トライを取ったんですが、足場が悪い上に、水を吸ったボールが重く、誰が蹴ってもゴールが決まりません。それを見かねた先生がハーフタイムに後半のキッカーを私に指命しました。


私はあまり主流ではなかった、爪先で蹴るトゥキックという蹴り方でしたが。


これが結構決まって誉められました。公式戦での初キック得点です。


3年の時は一年を通してキッカーを務めます。


この年、春の近畿大会で
8対10で負けて。

国体で
10対10で引き分け。


いよいよ全国大会で、決着をつける事になります。

ラグビー人生20

普段の練習でも、すべてベストを尽くしていました。
練習最初の走り込みでもみんなきちんとゴールを切ります。


これは絶対必要な事だと思います。
「最後の1mや2m力を抜いてもたいして変わらんやろ」

と、言うような人が居たら、

「たいして変わらんのなら走れよ」と言い返したい。

少なくとも高校ラグビーでは、ここをやるかやらないかで差が出ると思います。

ラグビーをする高校生に「目標は?」と聞けば。みんな口を揃えて

「花園出場」
「全国制覇」

というでしょう、しかし花園出場できるのは、一県一校だし、全国制覇は全国で一校だけです。


そこに到達するには何気なく毎日を過ごしていては難しいと思います。


私は無神論者ですが、緊迫した試合で最後の最後、あと5センチとか10センチ、手が届くかどうか、普段練習をきっちりやっていたか、神様は見てくれるような気がします。


ラグビーに関しては私は物凄くまじめでした。


多分三年間一度も練習を休んだことが無かったと思います。


高2の春の連休に、東京の八幡山に遠征したんですが、目黒高校と久○山と朝から晩まで試合をしました。

その最終戦、ラインアウトでボールに飛び付いたとき、ボコッと音がして。


見てみると、左の小指が外れて外側に曲がってました。


しかしプレーは続くんで、右手で押さえながら、ディフェンスラインに並んだりしていました。


プレーが途切れ、レフェリーに見てもらいますがどうしょうもありません。


副キャプテンの西口さんにお願いして、パキンと元に戻してもらい、テープで薬指にくくり付けて続行しました。


その直ぐ後、タックルされてラインの上を滑るように倒されました。


今ラインはスポーツ石灰を使いますが、当時は普通の石灰なので水分とジャージの繊維とあと何か解りませんが、化学反応を起こすらしく。背中の右半分火傷を負ってしまいました。


帰りの新幹線、友達に席を開けてもらい、三人掛けに横になって帰りました。


家に着いても、親父が心配して何処かから軟膏みたいなのを貰ってきて塗ってくれましたが、七転八倒していました。


次の日、学校は休んで医者に係り、薬である程度収まりました。


家に帰りお袋にさらしを出してもらい、高倉の健さんの様に体に巻き付け、練習にだけ参加しに学校に行きました。


普通に練習しましたが、スクラム組むときだけ、五番に入ってパックされると、右脇が飛び上がる程痛いので四番で組んでました。


それを見て、一般教科の先生から、授業を六時間丸々欠席してクラブ活動だけというのは如何なものかと、クレームがついたようです。


この遠征で、私はレギュラーの手応えを手にしましたし。


久○山と目黒が、毎週八幡山で壮絶な試合を繰り返し、大学生にも胸を借りて、力をつけている現実を見て、うちの高校だけが頑張っている訳ではないことを知りました。


次回は国体、大工大と二回目の対戦です。