多様性は、すべての人が幸福に暮らすうえで、必須のことですよね。最近は、メディアでも多様性という言葉たくさん使われます。
 
多様性を否定してしまうと、少数派はどんどん追いやられることになり、そうした人は、不幸な生活を強いられかねません。実際には、いろんな考え方、いろんな感じ方、いろんな好みがあるのは、当然で、すべての人を敬意をもって受け入れようとすると、自然と多様性が生まれてくるはずです。さらに言うと、すべてのひとは、他と異なった、個性を持っているという点からいうと、多様性を否定するということは、自分をも否定することになります。自分の考えや好みだけを押し通そうとすると、多様性が失われてきます。しかし、それは社会として大きな損失になるはずです。
 
エホバの証人は、まさにそのような状態です。
 
しかし、あなたがあなたらしく生きる、というのは、当然なことであり、そして、それができなければ、できないほど、人は、辛くなり、ストレスを感じ、心の病になり、最終的には死を選ぶ人もいます。もちろん、完全にとまではいきませんが、ある程度、多様性を受け入れてくれる社会に住むことは大切です。
 

JW内の多様性を否定する動き

非常に保守的
髪型、服装に関して、事実上の規則があります。最近、顎髭や、女性のパンツが解禁になりましたが、逆に言うと、それまでは、それがダメという規則があったということです。しかし、顎髭も、女性のパンツも、最近になって出てきた問題ではなく、もうすでに私が知る限りでは、少なくとも2、30年前から、問題になっていたことです。つまり、ある新たな文化や習慣を受け入れるのに、2、30年はかかるということです。
エホバの証人は、規則という明文化されたものを作らないで、あえて、おじさん兄弟たち、おばさん姉妹たちに監視させて、助言するというシステムをとります。しかも、その根拠は、「貞潔さ」などの目に見えない基準を当てはめてきます。個人的にそれが不服で従わなければ、「特権」をもらえなくなり、競争に負けてしまうのです。
 
 組織にとって都合のいい分だけを強調する
多様性の中には、自分で自分の生きたい生き方をすることが含まれます。エホバの証人をやめなくても、開拓奉仕はしない、援助奉仕者や長老にはならない、集会はコメントしない、割り当てしない、など、別に悪とされていない生き方もあります。実際、その人の体調、メンタル、家族の必要、経済的余裕など様々な事情、多様性が会って然るべきです。逆に、メンタルが弱い人に、あたかも開拓奉仕をしないのは、怠けているという雰囲気を作ったら、それは多様性を受けれないどころか、いじめです。しかし、そう言った生き方は、JW内では、周りからものすごく否定的に見られます。
模範的な人は、いつも目立つ存在になり、経験などでも、そうした人が幸福であるかのように取り上げられます。
開拓奉仕をしないこと、大学へ行くこと、コメントしないこと、など悪でもないのに、あたかも悪いことであるかのように考えられます。
 
出る杭は打たれる
多様性は色々なところで見えるはずです。服装などもそうですが、例えば、割り当ての果たし方、喋り方、所有する車、職種、交わりの中身、音楽などです。そう言った部分に関して、規則がなくても、今まで前例がない、他の人と違う、と言った理由で、助言され、辞めさせられることも多々あります。まさに、多様性を完全に否定するのです。
 
排斥という恐怖感
多様性を受け入れない決定的な方法は、排斥です。もちろん、エホバの証人としての基準を受け入れない人が、エホバの証人でなくなるのは仕方がありません。しかし、そうなった人は、完全に無視するのです。家族であっても一緒に食事すらできなくなります。実質的ないじめです。さらに、自分の家族が、会衆内で不名誉な扱いを受け、家族を悲しませてしまうという罪悪感を持たせます。自分が、何か他の人と違ったことをすると、最終的に自分も排斥されるのでは、という恐怖がいつも自分にあるのです。
 
エホバの証人以外の生き方を絶対的に否定する
エホバの証人は、自分たちが絶対的にただしいと主張します。確かに、どんな宗教や、企業や組織も自分たちの誇りのために、自分たちの組織が一番だ思う、思おうと努力する点はあります。
しかしエホバの証人は、自分たち以外の組織や個人をすべて完全否定します。それらの人たちは、不幸であり、絶対的に間違いであり、滅ぼされると教えます。なぜなら、もし他の宗教組織を少しでも肯定すると、自分たちの組織の存在意義が薄れ、信者が減るからです。「私はエホバの証人で実際に幸せだけど、あなたは仏教なのね、私はエホバの証人の方がいいと思うけど、あなたがそれで幸せなら、それもいいんじゃない」、程度の、周りの人を「尊重する」ことはできないのです。
 
エホバの証人は常に勝っていなくてはいけない
多様性を認めるということは、相手が自分より勝っている点や、異なっている点を積極的に受け入れることでもあります。しかし、エホバの証人は、前述のとおり、世の人は不幸であり、滅ぼされると教えられています。逆に言うと、自分たちJWは、世の人より、幸福で、健康で、有意義な生活を送っていなくてはいけないのです。絶対に、いつもいつも。しかし、それは、ある意味自分へのプレッシャーでもあります。JWであっても、疲れたり、集会や奉仕に行きたくなかったり、落ち込んだり、うつ病になったりします。しかし、それを認めてはいけないのです。それを認めると、自分は悪いJWであるという罪悪感や、自己の存在意義をなくし、さらに自己否定になっていくのです。
 
いろんな人がいてもいい、世の人でも幸せな人もいる、いろんな時期がある、自分も今は集会にいけないけどそれでいい、というような多様性を認めることが、自分も認めることになるのです。
 
 
 

JWはどうすればいいか

まずは、素直に、自分の気持ちを吐露する習慣をつけましょう。JW内で言うと面倒なことになるので、日記などに書き記してください。
正しいか間違いかではなく、あなたが感じた通りのことをかいてください。可能な限り、具体的に書いてください。例えば、集会がヤダではなく、集会で、あの人にあって、こうこういわれたのがいやだったなどです。これには、トレーニングが必要です。今まで、自分の感じたことに蓋をし、どう感じるべきかを教えられてきただけなのですから。
そして、それを続けていくうちに、自分の限界がわかってくるでしょう。また、自分には何が耐えられないのか、すこしわかってくるでしょう。その時に、調整してみてください。例えば、集会に行くのをzoomにするとか、行かないとか、コメントしないとか、奉仕にはいかないとか、、、。
 
もし長老から、集会に行くように、奉仕に出るように励まされたら、必ず、「精神的に」よわっているので、といいましょう。精神的に弱っている人に強いことは言えないはずですし、言ったとしたら、それを根拠に別の機会に、別の長老や、巡回監督に「自分が精神的に弱っている時に、あの長老から、こう言われたので、さらに精神的に悪くなってきた」と言いましょう。もし、医者に行っているかと聞かれたら、「医者は今の時点ではいっていない」とか、「医者に行って、JWの内側について話してしまって、エホバに不名誉になってしまわないか心配なので、いけていない」と言いましょう。
 
 
自分のペースを取り戻すには、非常に勇気と力が必要です。特に、JWは、一生あなたに付きまとってきます。会社などであれば、やめればいいです。JWはひっこししたとしても、あなたの紹介状をつけて、次の引っ越し先に送られるのです。
 
とにかく、会衆内で「精神的に病んでいる」人というレッテルをはってもらうようにしましょう。