この稿は、「私が好きな藤沢周平さんの小説」についてお話しするのが目的なので、中期以降の印象深い作品について、思いつくままにランダムにご紹介しようと思っています。

 前回に引き続き、「橋ものがたり」(実業之日本社 1980年 のち新潮文庫:連作短編集)という短編集に収録されている「約束」という短編のあらすじをお話しします。

 

《約束》(続き)

 幸助は思った。「しかし、五年前の約束だ。お蝶が覚えているとは限らないのだ」。時刻は間もなく約束の七ツ半(午後五時)になろうとしていた。

 

 お蝶が働いている汐見屋の女中仲間のお近が、お蝶に言った。「泣くくらいなら、行けばよかったじゃないか」。「だって、あたしがどんな顔で行けると思う?」とお蝶は答えた。

 お蝶が初めて客と寝たのは二年前だった。両親が揃って病気で寝込んでしまい、金が欲しかった。一度寝てしまうと、金のために男と寝ることをなんとも思わなくなった。

 

 幸助は、橋の欄干に頬杖をついて、川の水を眺めていた。時刻は約束の七つ半(午後五時)から一刻半(三時間)近くも経って、赤く大きい月が空にのぼった。橋を通る人はほとんどいなくなったが、幸助は「帰ってしまえばそれっきりだ」と思っていた。

 時刻が更に過ぎて五つ半(午後九時)近くになった。「お蝶は来はしない」と思いながら、なおも幸助は頭を垂れて身動きもしないでいた。女がいつ来たのか、幸助は知らなかった。

 「幸助さん」と呼ぶ声が聞こえ、顔をあげるとお蝶が立っていた。立っている女がお蝶だということはすぐにわかった。

 「ごめんね。こんなに待たせてごめんね」とお蝶は言った。「いいよ。約束を忘れなかったのか」と言う幸助の言葉に、お蝶は「忘れるもんですか」とほとんど叫ぶように答えた。それを聞いて幸助は言った。「来年から自分の家でばりばり働くつもりだ。お前さえよかったら、その時に所帯を持とう」。お蝶は「うれしい」と答えて頬を涙で濡らした。

 幸助はお蝶を抱きしめ、「やっぱり一緒になるのはお前しかいないものな」と囁き、お蝶の口を吸おうとした時だった。お蝶の身体(からだ)が腕の中で弾ねた(はねた)。凶暴な力で、お蝶は幸助の腕から逃げていた。「狂ったか、お蝶」と問いかける幸助に、お蝶は答えた。「いいえ、狂ってなどいません。私は、お金で身体を売っていたの。それで暮らしていた汚(けが)らわしい女なのよ」。

 幸助は眼をつむった。思ったよりももっと悪い話を聞いたようだった。つむった眼の裏を、十三のお蝶が泣きながら通り過ぎた。

 お蝶は言う。「これで分かったでしょ。約束の時間にここに来られなかったわけが。幸助さんに合わす顔がない女になってしまったの。好きでそうなったとは思わないでね。幸助さんのおかみさんになりたかったの。ごめんね」。

 お蝶の背が、おぼろな闇に消えるのを、幸助は身動きもせず見送った。

 

 母のお年に呼ばれて、お蝶は寝間に行った。「気分はどう?」「いくらか楽なようだよ」などと話し、病人の朝の始末が済むと、お蝶は台所に戻った。昨日帰ってきて一睡も出来なかったお蝶は、「今日からどうしよう」とぼんやり思った。昨日までは、灰色の暮らしの中に、一点輝いてお蝶に呼びかけ力づけるものがあった。だが、光は消えてしまって、灰色の道だけが続いている。

 お蝶はそっと溜息をつくと、さっき洗い上げた洗濯物を抱えて、土間に降りた。すると戸が向こうから開いて、なだれ込む朝の光の中に、長身の男が立っていた。幸助は、ぎこちなく微笑しながら「入っていいかね」と言い、茫然と立っているお蝶の胸を押して、土間に入って来た。

 幸助は「一晩、眠らないで考えたよ。そして俺は俺で、お蝶はお蝶だと思ったんだ。五年前と人間が変わっちまった訳じゃない。そう思って、それを言いに来たんだ。俺はまだ奉公が残っているし、正直言って、どうしたらいいか分からない。だが、とにかく二人はもう離れちゃいけないんだ」と言った。

 「でも、そんなこと出来はしない」と言うお蝶に、幸助は「できるさ。二人とも少しばかり、大人の苦労を味わったということなんだ」と答えた。

 「少しじゃないわ」。お蝶は幸助の眼を覗き込むようにした。

 それから、お蝶は、ちょっと待って、これを置いてくるから、と言って、洗濯物を抱え上げると台所に姿を消した。

 そのままお蝶は戻ってこなかった。幸助が声をかけようとしたとき、お蝶が忍び泣く声がした。声は、やがてふり絞るような号泣に変わった。

 狭い土間に、踊るように日の光が流れ込んでくるのを眺めながら、幸助は、ここに来たのは間違っていなかった、と思った。お蝶の悲痛な泣き声が、その証だと思った。お蝶が泣く声は、真直ぐ幸助の胸に流れ込んでくる。幸助は自分も少し涙ぐみ、長い別れ別れの旅が、いま終わったのだ、と思った。

(「約束」終わり)

 

(以下次回→時期は未定)