『電話の彼』
2005年の秋、
夜の六本木でギターを弾いていた僕の元に、2件の着信が残っていました。
登録のない番号で、2件とも同じ番号からでした。
仕事の合間にその番号に架け直しました。
深夜0時でした。
みょうに声の明るい男が出ました。
その電話の彼はこう言いました。
「今やってるバンドが解散するんやけど、その後新しいバンドを組もうと思っとるんけど、ギターとしてメンバーになってくれんかねぇ?」
電話の彼は細かい事は会ってから話したいと言い、僕の仕事の終る時間を聞いてきました。
仕事終了は深夜2時でした。
深夜2時半ごろ、電話の彼は黄色いカブに乗って六本木に現われました。
仕事場から近くのフレッシュネスバーガーに入りました。
電話の彼が今やっているYS-11というバンドが解散すること、
対バンの時に僕のプレイを見たとき、僕のギターがイイと思ったこと。
そんなことを話し、「とりあえず一回スタジオに入ろう」と、約束し、彼は黄色いカブに乗り、六本木の街から去っていきました。
深夜4時でした。
後日、下北沢のスタジオに入りました。
最初に合わせた曲は「word」という曲でした。
そのリハーサル後のロビーでの話しで、僕がサポートとしてやっていくことが決まりました。
次にスタジオに入ったのは、2005年の大晦日でした。
その日は、カウントダウンライブにYS-11が渋谷DESEOに出るということで、
その本番前に渋谷のスタジオに入りました。
僕は
「これから本番が控えているってのに別のリハをして、、、なんて無茶するヤツだ」
と思いました。
その「なんて無茶するヤツ」感はこの先2012年の11月18日まで続く事になります。
そのリハーサル後、僕はバンド名を尋ねました。
電話の彼は言いました。
「サスライメイカー。メーカーじゃなくてメイカー。」
2006年の1月22日
サスライメイカー初ライブは福島県の郡山#9でした。
「なぜ初ライブが福島?」
とは思ったが口にはしませんでした。
その時のセットリストは、①word ②君と子猫とミルクティーと僕と ③FAKE ④オールドタイマー ⑤三日月
でした。
しかし、この郡山まで観に来てくれているファンがいる事に驚きました。
そのファンの数名は、2012年11月18日にも渋谷O-Crestに来てくれていました。
次のライブは2/9の下北沢QUEでした。
2/5にギターのレコーディングしました。
電話の彼は言いました。
「2/9のライブで絶対発売する!」
と豪語してました。
僕は「絶対にムリ」と心の中で思っていました。
2/9
CDが販売されていました。
僕は2回目の「なんて無茶するヤツだ」を感じました。
電話の彼はその後、数々の無茶を言い、無茶を形に残してきました。
某ビジュアル系バンドのギタリストが新規で組むバンドのボーカルに、電話の彼が抜擢されました。
レコーディングしたものの、そのバンドの音楽性に疑問を感じ、電話の彼はその話を蹴りました。
めちゃめちゃおいしいお話だったのに。。
その後、そのディレクターの紹介からJさんと出会い、新規レーベル立ち上げの第一弾アーティストにサスライメイカーが選ばれ、『ストーンカラー』のリリースが決まりました。
「東京」の歌入れレコーディングでは、部屋を真っ暗にし、パンツ一丁で歌ってました。
翌年『虹色列車』のリリースが決まりました。
リリース記念のイベントライブで、電話の彼が扮装した”藤原くん”というキャラがいました。
広島カープの応援団のような格好をした”藤原くん”は、対バンのライブ中にステージに上がり、踊り、歌い、ボーカルに紅葉饅頭を食らわせ、パサパサして歌えなくさせてました。
その日の打ち上げで電話の彼(藤原くん)は、事務所の人にこっぴどく怒られてました。
しかし、その紅葉饅頭を食らった某ボーカルは、2012年11月18日の打ち上げに参加してくれるほど"藤原くん"と仲良くなってました。
初めてサスライメイカーでツアーをしました。
僕の実家である下関の”馬関まつり”にも出ました。
その時、同じステージには、故・桑名正博、GLASS TOP、おつかれーずの前進バンド杉本拓朗バンドでした。
広島のライブ後、車内で僕の誕生日を祝ってくれました。
翌年『さよなら/サヨナラRainbow star』のリリースが決まりました。
さよならツアーをしました。
広島のライブ後、電話の彼は「CDを売って来る」と行って夜中に広島の街に消えて行きました。
翌朝、持って行ったCDをカラにして帰ってきました。
2009年1月31日のワンマンでツアーの特典DVDを配りたいと言い出し、正月から皆で集まり編集作業をしました。
そこで僕はサスライメイカーのメンバーに入るよう誘われました。
その日から僕はサスライメイカーのみつをになりました。
翌年の渋谷O-WESTワンマンを決めました。
「ミジュクナヒカリ」のリリースが決まりました。
PVも撮影しました。
が、使われることはありませんでした。
完成された物がイメージと違うと、、、。
電話の彼は、ライブでカレーを用意し始めました。
渋谷O-WESTでワンマンをしました。
最後の曲「Listen to the music」で電話の彼は叫びました。
「来年はON AIR EASTだー!!」
ON AIR EASTの名は、O-EASTの昔の名前でした。。
翌年の渋谷O-EASTワンマンを決めました。
電話の彼は、ライブでハッピーターンを身にまとい始めました。
農業映画の主題歌を獲得しました。
電話の彼は言いました。
「口だけで、共感したから音楽を担当した、と言っても何も説得力が無い。本当に共感したのならば動くべきだ」
ファンの皆とバスツアーで田植えを企画しました。
ライブ会場のロビーで有機野菜のバイキングを企画しました。
ファンの皆とバスツアーで稲の収穫を企画しました。
皆で作ったお米をライブ中に振る舞いました。
毎月新曲を発表しようと言い、月間雑誌を企画しました。
また電話の彼は言いました、
「緑音色野祭ほどガッツリとした準備も大変なものじゃなく、軽く出来て皆が楽しめる定期的なイベントを企画しよう。」
そのイベント名は”○○な歌会”となりました。
結果、、ガッツリ準備が大変なイベントになりました。。。
昼夜公演で、2回ともドッキリで僕の誕生日を祝ってくれました。
『Time Color Travel』のリリースが決まりました。
レコーディングが始まったのに、1曲出来てませんでした。
電話の彼は言ってました。
「今までのサスライにはない感じで、打ち込みがピコピコ言ってる感じの曲にしたい」
レコーディング期間が3日間の中、3日目にその曲は出来ました。
その曲は「Hot cocoa」という曲になりました。
渋谷O-EASTワンマンで、でっかいハッピーターンを用意しました。
ライブに曲をモチーフにした舞台を入れ込みました。
3月11日、震災がおきました。
数日後に名古屋ワンマンを控え、東日本はまだ交通の確保が出来ていない状況で電話の彼は言いました。
「被災地に行く」
と。
みんな反対しました。
僕も反対しました。
結果、ファンの皆からの支援物資と想いとギターを担ぎ、3月27日に被災地に行きました。
帰ってきた電話の彼は、明らかに何かが変わってました。
その後、ほぼ2ヶ月に1回のペースで岩手に行きました。
「海嘯鎮魂の詩」を託されました。
電話の彼はレコーディングに関わる全ての人に想いを伝え、CDという形にしました。
電話の彼は4ヶ月連続で4都市でワンマンをすると言いました。
更に新曲を4都市で発表するとも言いました。
結果、名曲達が出来ました。
思いが少しバラバラになりかけた頃、電話の彼は言いました。
「休止をしよう」
電話の彼は、日本縦断し、ロンドンで「海嘯鎮魂の詩」を歌いました。
2人で話し、無期限の活動休止を決めました。
2012年11月18日、最後のワンマンライブの2週間前、電話の彼は言いました。
「新曲を作りたい」
結果、ワンマンの前日に完成しました。
僕は、そのサビを聞いた時、涙が出そうでした。
2012年11月18日、今までで過去最高の曲数をやりました。
電話の彼は、声を枯らしながらも最後まで歌い続けました。
電話の彼は、最後まで笑ってました。。
僕は、そんな無茶な電話の彼が最高に大好きです。
みつを