第1回の「私の人生に関わった本」は、村上春樹氏の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」をご紹介いたしましたが、今回も村上春樹氏です。
氏のデビュー作である、「風の歌を聴け」をご紹介します。
ということで、
tsunagai-kasumiさん、ホントすみません。
ミステリの紹介に関しては、後々紹介予定です。
前回と同様、この記事ではあまり小説自体の説明はいたしません。たくさんの方がこの小説(およびこれに続く作品の)書評をしておりますので、そちらをご覧ください。
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●mendohさんの「
読書好き」から
「風の歌を聴け」
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この「風の歌を聴け」からは、
10代の時の他者へ見せるスタイルを学びました。
主人公の「僕」の、その小説の中での振る舞いに感化され、(これもありだな)と
若き日の私(以下、『僕』)は思ったものでした。
とにかくこの「風の歌を聴け」における「僕」は、クールなのです。
そのシンプルかつ断片的な文体や、無生産的な会話などにみられる「僕」が、読み手である
『僕』にとって非常にショックだったのです。
例えば、家族の悪口を話してしまい、やや後悔している女性との会話
「家族の悪口なんて確かにあまり良いものじゃないわね。気が滅入るわ」
僕:「気にすることはないさ。誰だって何かを抱えているんだよ」
「あなたもそう?」
僕:「うん、いつもシェービングクリームの缶を握りしめて泣くんだ」
・・・この比喩とも暗喩ともとれる会話。「はぐらかし」という言葉で表現される一般的には冷徹な部類に含まれる会話。
小説には、このような会話が次々と主人公である「僕」と誰かの間で交わされていきます。
思春期の
『僕』には、これには相当参りました。
そして、こういった表現(表面)を持つことに単純に憧れました。
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(ここで一旦、現時点の私の視点では記述します。)
この「風の歌を聴け」は、小説の表のテーマ(メインストリーム)そのものが、「はぐらかし」の面を持っています。裏のテーマ(実はこれに続く「1973年のピンボール」や「羊をめぐる冒険」を読まないと分からない本当のメインストリーム)は、その後の村上春樹氏の小説全般に言えることですが「喪失感」なのだと思います。
この二重構造をそれなりに理解し、小説上の「僕」の在り方や、「はぐらかし」そのものが、根底にある「喪失感」に包括されていることに気がつき、深く感嘆をしたのは、残念ながら
『僕』から、しばらく後のことになります。
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(『僕』に戻ります)
とにかく、完全に感化されてしまったということです。まるで高倉健の仁侠映画を見た帰りに、なりふりかまわず喧嘩する大人達のように、感化されてしまったのです。でも、この表面的に「風の歌を聴け」の「僕」のようになることは、それなりに大変でした。
要するに、
1.人に感情を見せず、徒党は組まない。
2.必要のない会話はしないこと。会話が必要な時は、無生産な会話をすること。
3.必要な時は必要なエネルギーだけ使うこと。結果的にいつでも余裕を持つこと。
4.上記3つを実践しつつ、適当に人からは信用されること(ジェイや鼠との関係)。
5.上記4つを演じるということ。
を実践することであり、不器用な『僕』にはかなりの努力が必要でした。
特に4.までを包括する5.ができないと、圧倒的に嫌な奴となってしまうため、自然と本当の
『僕』と周りから見た
『僕』が出来上がってきます。
今から思えば、それなりにコツが分かってくると、自分というものが分からなくなってきました。
それでもある人はそんな
『僕』を「落ち着いているよね~」と評価してくれました。で、ますます調子に乗って、磨きをかけてしまうのです。
かくして、
『僕』の高校時代の後半と大学時代のスタイルは、この「風の歌を聴け」の「僕」によって、確立されたのでした。
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そして今。
結局のところ、結婚やら仕事やらで、コミュニティーの範囲が大きくなると、そんなスタイルはいつまでも通用せず、そんな
『僕』(あの頃の若き私)は、微塵もありません。
なははは。

著者: 村上 春樹
タイトル:
風の歌を聴け

著者: 村上 春樹
タイトル:
1973年のピンボール

著者: 村上 春樹
タイトル:
羊をめぐる冒険