あゆたまには有るを見て欲しい
今日そう言われた。
傍から見ると、
私には色んなできることが有るらしい。
そして、それが発揮されていない。
でも実はその有ることを、
自分でも認識はしている。
そしてやっぱり発揮していない。
傲慢になってしまうのではないか
と心配になるから。
私のことを傲慢だと言った人は
この世に1人しかいない。
母親
たった1人なのだ。
そのたった1人の言葉に私は縛られて、
有るものを発揮できずにいる。
なんか乳臭いな~と思った。
47歳にもなって、
まだ母親、母親言ってるのかよって。
母親なんて、
もう生きてるのか死んでるのかもわからない。
生きてたって18年も会ってない。
それどころか母娘としての縁は
とっくに切れている。
なのに私だけまだ、
母親との間にあるものを切れていない。
それはまるでへその緒のよう。
断ち切りたいな。
でもどうやって断ち切るのだろう。
物理的にハサミでちょきんといけるものではない。
きっと私の自立なんだ。
私がもっと私らしく生きて、
母親の考え方から離れることんなんだ。
母親があんたは傲慢だと言うのなら、
私はその傲慢だということを
やってみればいいのかもしれない。
中学生の頃、
友達は何かあっても助けてはくれないんだよ!
と母に言われたことがあった。
じゃあ何のために友達?とその時の私は思った。
私は母の言葉を素直に
受け入れることはできなかった。
母はそうだったのかもしれない。
そう思うしかなかった母は可哀想な人だ
と大人になってから何度も思った。
私は違う
私は人を信じたい
そうやって何度も傷つけられ、
裏切られここまできたけど、
私が今1人でも生きられているのは、
友達がいるからだ。
何故かこれは母の逆を行くことができた。
血の繋がりとか関係ない、
それでも家族のようでいられる
そんな世界があると信じたかった。
母の言うとおり誰にも頼らずにいたら、
私は今もう生きていない。
今こうやって生きていられるのは
友達がいるからだ。
ということは、母が傲慢だと言ったのなら、
私はそれをやればいいのかもしれない。
恐いけど。
もしかしたらそれで
離れていく人がいるかもしれない。
でもそれでいいんだと思う。
何があっても
離れない人もいれば、
何もなくても
離れていく人だっている
そもそもずっと同じ関係なんてない。
私たちは成長する生き物。
変わる生き物。
それでもずっと一緒にいられる関係は、
それぞれが変化しながらも認め合い、
共に上へ向かっていけるから。
変わろうとしない人、蹴落としていく人、
向上する先も違う方向だったら、別れはつきもの。
ならば、執着せず、
自分がそうしたいと思うように生きた方がいいね。
人生の時間は限られている。
執着している時間はもったいない。
「マイ・セカンド・アオハル」の
最終回でも言っていた。
みんなが通る道より
自分の歩きたい道歩きなよ
超名言!
私も自分の歩きたい道を歩きたい。
歩こう。
なんか脱皮する予感


