
僕は、宗教が嫌いだし
宗教など、必要はない
僕は、自分自身が
自分の宗教であるし
自分を救う宗教は
自分以外ありえない・・・と
思っている。
小学生のころから
自分は
人には理解されにくい人間だと
思っていたし
理解してくれるように
説明するのも
面倒くさいと
思っていた。
だから
誰よりも
自分を理解しようと思っていたし
それによって
自分の心を客観視できるようになった。
なんで
僕が自分の心を理解しょうとしたかといえば
自分の心の救いを
他人に委ねたくなかったから・・
他人の心なんかに救われるぐらいなら
心なんか
壊してやる・・・と
この本の中に出てくるエホバの証人の人たちは
とても
真面目です。
やっていることも
考えていることも
社会的にも
倫理的にも
なんの問題もなく
善人顔して
不倫するような人たちと
比べれば
遥かに
マシです。
ただし
輸血拒絶・・・が
なければ。
もし
この教義がなければ
何を信じていようと
何を感じていようと
問題はなかっただろう。
この輸血拒絶に関しては
この事件以外でも
問題が起きている。
女性は「エホバの証人」という宗教団体の信者で、肝臓ガンを患っていました
この女性は重い肝臓病でしたが、信仰上の理由で輸血ができません。
そこで、同じような肝臓ガンのケースで、
輸血せずに手術を成功させた実績のある東大病院に入院することにしました。
担当医に自分の信仰を説明し、
どんな事態になっても輸血だけはしないでほしいと訴え、
輸血をしなかったためにたとえ命を落としたとしても
病院の責任は一切問わないという文書も提出しました。
ところが、この女性は重い肝臓病であったため、
様態が急変し、
危篤状態になってしまいました。
担当医は緊急手術が必要と判断し、
手術の成功率を上げるため、
本人の承諾を得ないまま輸血を行うことにしました。
手術自体は成功し、この女性は命をとりとめました。しかし、患者の女性は、輸血をしないよう頼んでいたにもかかわらず、なんら説明もなく一方的に輸血をしたのはゆるせないと、担当医と東大病院に不信感をいだくようになりました。この女性にとって、手術での輸血は医師の裏切り行為であり、自分の信仰を踏みにじるものだと考えました。そのため、翌年の1993年に担当医と東大病院を「信仰を踏みにじった」として、民事訴訟によって1200万円の損害賠償を請求することにしました。
これなどは
明らかに
社会的コンセンサスを
拒絶している・・・としか
いいようがない。
病院というのは
病気を治して
患者を死から遠ざけるのが
仕事であり
使命でもある。
その病院を
命を助けたから訴える・・・というのを
社会的に
分からせようとしても
無駄である。
たとえ
どんな理由が考えがあったとしても
医者が
命を救った患者に
訴えられるなんてことが
理解できるわけがない。
エホバの証人以外の人に・・。
ここが
問題なんだと思う
中学生の僕でも分かったことだ。
普通じゃない自分を
このままじゃ
世間はわかってくれない。
世間と自分の接点を見つけるか
一人になるか。
客観視などしたら
宗教など成り立たない。
しかし
もし
自分たちの考えを
本気で世間に伝えたい・・・と思っているなら
社会と自分たちを
客観視すべきだろう。
しかし
彼らはそれをしている様子は
観て取れない。
個別に訪問して
話など聞いてくれるはずがない。
そんなことすらわからず
ただ
訪問し続ける
挙句に
「おまえら、エホバの証人だな。
いますぐ責任者連れてきて、
二度とここには来ません・・・と書かせろ!」と
怒鳴られる。
真面目も愚直も
度が過ぎれば
バカのはた迷惑でしかない。
ましてや
僕が恐らく
どんなことがあっても
この人たちを理解できないのは
死を前提にした話をしているからだ。
僕は
宗教の考えの中でも
極楽浄土という考えが
大嫌いだ。
死という
まったく未知なものを
いかにも
観てきた
知っているがごとく
語る
その心根が
本当に猛然と嫌いだ。
10歳の大くんが
父親から
「生きたいか?」と問われ
うなずいた
10歳の子が
生きたいかと問われれば
生きたいと答える
もしかしたら
だだ
父親の声に反応しただけかもしれない。
僕にとては
そんなことすら
本人の意思も
ましてや
宗教なんてどうでもいい。
だだ
そこに残ったのは
10歳の少年の死・・だけ
父親の前には
楽園も復活も
ハルマゲドンもない
ただ
10歳の息子の死だけが
残ったのだ。
これを
どう思うかは
ひとそれぞれだが
僕は
許さない
そこに至ったすべてのものを
どんな理由があっても
誰がなんと言おうと
許さない
