たとえば、若い男女が付き合って結婚を考えたとき、お互いが望む幸せの尺度が異なっていると結婚は難しいだろう。
平松愛理が『部屋とワイシャツと私』で歌っているような、「家庭的であなただけを愛していていつもあなたの帰りを待っているけど浮気したら殺すぜ!」みたいな女性と、上昇志向の強い「いつかビジネスの世界でのし上がって家族には良い暮らしをさせてやるぜ!でも刺激的な浮気もするぜ!」みたいな目指すゴールの異なるカップルが結婚したら、悲惨なことになる。
幸せな生活の尺度や、将来どうありたいかという人生観はそもそも男女差が相当あるように思うが、そのなかで「普通で平凡な人生」という漠然としたつかみ所のない幸せの尺度というものをどちらかが強く持っている場合は特に厄介だ。
いずれにしても、結婚を考える場合には、お互いの求めるものの食い違いに対して双方が歩み寄って妥協するしかない。
リブログしたのは、当時流行っていた馬場俊秀さんの『スーパーオーディナリー』という曲にインスパイアされて10年前に書いた記事だが、今なら髭男の『115万キロのフィルム』にその似たような世界観は引き継がれていている感じがする。
将来のことをシリアスに考えても仕方ない。
特に恋愛やその延長線上にある結婚みたいなロマンスを語る上で、将来のことを真剣に理屈っぽく考えていては話が成り立たない。
取りあえず今は、愛し合うふたりのたわいもない平凡なストーリーの中には数え切れないほどの輝かしいシーンがあり、その映画をエンドロールなく永遠に撮り続けたいというラブソングが髭男の『115万キロのフィルム』だ。
若い人たちの共感をいかにも得られそうな純粋で一直線なラブソングだが、その映画にオチはない。
恋愛のオチは現実には別れだが、バブル期には「恋愛のゴールは結婚」という呪縛があったように思う。
結婚のゴールは離婚かもしくは「お互いの妥協しうる幸せの継続」だろう。
幸せの継続には、その目指す幸せの質にもよるが、相応のコストがかかる。
「ただ家族が食って行けて、住む家と着るものがあって、健康であればいい」というのが最低限の平凡な幸せのような気もするが、それすらそんな簡単なことではない。
全てを犠牲にしてお互いの愛だけを最大限に尊重するとすれば、それが最もコストのかからない幸せだが、たとえ飢えようが、住む場所もなくさすらおうが、死んでしまおうが、「ただ愛するひとと一緒に居れればいい」という、「君さえいれば他はなにも要らない」的自爆愛は今は流行らないし、平凡どころか非凡な幸せの追求だと言えよう。
資本主義の世界において、資産や収入や稼ぐ才能の十分にない人たちが、最低限のコストで平凡な幸せを手に入れることは難しい。
2年前に書いた以下の記事には、資本主義社会におけるお金と愛情の関係について述べている。
お金と愛情の奇妙な相関関係について | Mr.Gの気まぐれ投資コラム (ameblo.jp)
「たとえ愛も金ももう要らないと思えたとしても、この資本主義の世界は、地球上の愛と金が成長し続けなければ滅んでしまう。」という表現は我ながらなかなか面白い。
インフレの進むこの世の中で、大多数の人間が平凡な人生を求めるよう洗脳され、実はコストのかかる平凡で普通の幸せを漠然と求め、その為に無益な労働と消費を繰り返すことで資本主義は回っていくのだ。
この10年の間に、当時はまあまあ流行った「スタンダードライフ」というハーベストというセービングプランを提供していた香港の保険会社も中国資本が入り、今は「Heng An Standard Life(恒安標準人壽)」となっている。
マン島のFPI(フレンズプロビデント・インターナショナル)と共に既に日本の市場から姿を消してしまっている会社だが、いまも香港では健在である。
これら日本で普通の生活を求める方々からは縁遠いであろうオフショア金融商品を提供している会社に、スタンダードライフ=普通の生活という名前が付いているのは今更ながら皮肉な感じがする。
実際には保険の国際的なスタンダードとなりうる「標準仕様の生命保険」といった意味だろうと思うが、決して標準的なショボい運用を求める人向けの保険商品を提供しているわけではない。
身の程をわきまえないレベルで闇雲に上昇志向に走ることが決して良いことではないだろうが、どこに標準があるのか分からない変動する価値観のなかで生きている我々が、標準的で、普通で、平凡な人生を漠然と夢見ることも、その実現の難しさから考えるとリスクのある行動のように思える。