2015年4月13日の記事『Mr.Gが投資を始めた理由』でも書いたように、投資というものと出会い、そして成功すること(もしくは失敗すること)は予期せぬ偶然に左右されることがある。
私(Mr.G)が投資を始めた理由
投資というもに関わる我々は、基本的に偶然や運といった不確実なものを経験や論理によって極力排除しようと努力しているわけだが、投資というのが100%確実なものだとすれば、誰もが迷わず投資をすることになり、結果として投資は成り立たない。
しかしながら、不透明で不確実な投資というものに足を突っ込むひとが居て、結果はその僅か数%のひとしか勝つことはできない。
投資内容や、投資判断という事について苦慮すべきは、投資を始めた人だけだけであり、投資をしない人にとっては、どうでも良いことである。
そもそも、人と投資との出会いや関わり、投資を始めようと思うきっかけには、相当スピリチュアルな要素が実は絡んでいるように思われる。
スピリチュアルな出会いにより投資を始めたり始めなかったり、スピリチュアルな影響で成功したり、成功しなかったり、ということが現実に起こっているようだが、投資業界では一般的にそれを運や偶然とひとくくりに言い、そして結果については自己責任という言葉で取りまとめる。
投資の結果というのは明確であり、利益を手にすることができたか、失ったか、イーブンだったかのいずれかしかない。
あるひとは、ポジティブなスピリチュアルの繋がりで良い出会いを引き寄せて投資をすることになり、良い結果を出す。
あるひとは、ネガティブなスピリチュアルの繋がりで良くない出会いを引き寄せて投資を行い、損をする。
英語のスピリチュアル(英: spiritual)は、ラテン語の spiritusに由来するキリスト教用語で、霊的であること、霊魂に関するさまを意味する極めて宗教的な表現だが、ここでは単に存在するかどうか科学的にはわからない霊的なものや魂、精神といった一般的な表現として使用したいと思う。
スピリチュアルというと、オカルト的な印象を持たれる方も多いかもしれないが、いわゆる人間の持つ目に見えない精神や心というものをスピリット(spirit)と言うのであれば、語源はともかくスピリチュアルが投資に限らず人間の行動の多くを司っていると言えなくはない。
お金や金儲けにダイレクトに結びついている投資の世界は、人間の欲に絡むネガティブなスピリットとそれに毒された人たちに満ちあふれている。
自分のスピリチュアルが弱っていて、悪い方向に行っているときには容易にそのような金融界にウヨウヨ居るネガティブスピリットの餌食になってしまうので注意が必要だ。
ネガティブスピリットは、簡単に言えば、お金という架空の価値しか持たないものに自分の心が支配されるところから生まれる。
「お金に心が支配される」ということは、「お金のために生きている」ということであり、行動の原点が全てお金のためになってしまっている状態と言ってよいだろう。
それは、投資をしていないひとにも高い確率で起こりうる状態だ。
逆に、日本ではありがちな議論だが、「お金で幸せは買えないし、お金がなくても私は幸せだ」的な考えには現実味はなく、むしろそのような極端な理想論から経済的に破綻して結果としてはお金に支配されるようなこともあり得る。
お金は大切だし、働いて稼ぐことも、投資や運用で儲けることも、どちらにも労力はかかるし、頭も使わなければならない。
それによって得られる対価としてのお金は同等に尊いものであり、生きていくために必要なものには違いない。
しかし、それが全てではない。
「大切で必要なものだが、全てではない」という考え方が重要なのかもしれない。
風水を重んじる香港人のお金に関する考え方は、お金と命(心)はまるで「陰と陽」、「月と太陽」のように自分の中で半分半分の価値と役割を担っているかのように感じられる。
そのバランスが崩れている時には、良いスピチュアルは生み出されないと言うことなのかもしれない。
投資というものやその世界に関わりのない人たちの中には、汚れのない純粋なスピリットで投資を受け入れることのできるひとたちに出会うことがある。
そういう人たちの多くは、今は純粋でも、投資をやっていく中で、いつかはバランスを崩していくのかもしれない。
既に、投資を始めているひとであれば、その投資との出会いやそのきっかけとなった自分のスピリットを思い出してみて欲しい。
何かの流れで、これから新しく何か投資の機会に出会うひとは、その流れを引き寄せている自分のスピリットを冷静に精査した方が良いだろう。