皆さん こんにちは。

 

新約聖書の使徒言行録二章に記されている通り五旬祭の日に、約束通り(ヨハネの福音書十四章十五節〜二十六節)主イエス・キリストが天に帰られた後、聖霊を送ってくださいました。

 

聖霊が降る五旬祭に、主イエスの偉大なる御業と愛と従順を思い出しましょう。

 

こちらの☞キリスト道のブログ記事『ゲツセマネの祈り』をご覧ください。

引用ここから一部抜粋〜

最後に、全人類の罪の贖いのために自らを犠牲にして神の怒りの杯を受けて、神から引き離されることについてです。

律法にあるような動物の犠牲では全人類の罪の贖いはできません。それ故、天の父なる神は御子イエスを世に遣わし、それを可能にしたのです。神の怒りの杯を受けることは肉体的、及び精神的苦痛は然る事ながら、霊的苦痛があります。それが神と引き離されることです。実は、霊的苦痛が一番つらいものなのです。一般に、このゲツセマネの祈りの後すぐに逮捕され、そこからキリストの受難が始まったと思われていますが、ゲツセマネに到着した時から受難が始まっていたのです。それ故、主イエスは「わたしは死ぬばかりに悲しい。」(マタイ26:38)と仰ったのです。ここで「死ぬ」というのは、十字架での死ではなく、霊的に天の父なる神と切り離されることを意味します。

主イエスは、受難前は、常にいと高き方である神を父とお呼びになっていましたが、十字架上では、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46、マルコ15:34、詩編22:2参照)と明らかに距離感のある言葉遣いとなっています。主イエスがゲツセマネで受難された時は、天の父なる神から引き離されたかのような苦しみをお感じになられたのです。しかし、それでも決して楽をしたり、苦難を退けたいという肉の思いではなく、神の御心を優先させました。それが主イエスのゲツセマネの祈りでも表れており、この杯をわたしから過ぎ去らせてくださいとも祈りましたが、主イエスが仰ったのは、十字架の回避を願ったのではありません。杯というのは、聖書から解釈すれば、神の怒りを意味します。根拠は、詩編11:6、詩編75:9、イザヤ書51:17、エレミヤ書25:15、ヨハネの黙示録14:10が挙げられます。主イエスは、御身から神の怒りを過ぎ去らせるように願ったのです。神の怒りというのは、本来は、罪の報酬です。罪を犯さなければ、神の怒りを受けることはありません。主イエスは、神の御子として完全であられ、罪を犯しませんでした。それ故、神の怒りを受けることの重大さ、耐え難い程の重荷であることを実感したのです。「天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(ルカ22:43~44)とあり、苦しまれた様子が示されています。そんな中でも天の父なる神は、神の御使である天使を御子イエスに送って元気づけられました。ここからも天の父なる神の愛が分かります。父なる神にとっても御子の犠牲は悲しいものだったのです。これは霊的な苦しみです。最終的な裁きではありませんが、罪深い人間が神の怒りを味わうのと、完全無欠な主イエスが人間として神の怒りを味わうのとでは感覚がまったく違うのです。例えるならば、ガラスと石の違いのようなものです。透き通って綺麗なガラスは圧力が加わるとひび割れたりダメージを受けやすいですが、濁って汚い石は比較的丈夫なものです。

複数の過去記事で申してきたように、死は罪の故に発生する報酬であり、神と永遠に切り離されることを意味します。しかし、主イエスは罪を犯されませんでした。よって、本来、主イエスは死を味わう必要が無いお方で、死だけでなく、鞭打たれ、侮辱され、唾を吐きかけられ、こぶしで殴られ、茨の冠をかぶせられ、葦の棒で頭を叩かれることも不合理なことでした。主イエスが最も恐れたのは、死そのものや侮辱や暴力を受けることではなく、天の父なる神と引き離される霊的な死のことでした。主イエスが受肉されて地上に来られてからも、神の御心どおりに生活されました。しかし、人々の罪を背負われて神の怒りをお一人で受けられ、また、御父と御子という特殊な関係が一時的ではあっても切り離されることが死ぬほどの苦しみ、悲しみだということをお感じになったのです。それは旧約聖書の預言者の書にも書かれています。

中略〜

ゲツセマネという名前は、油絞りという意味です。また、そこはオリーブ山でもありオリーブを絞ってオリーブ油を作っていたと思われます。過去記事「今後の社会情勢と神の裁きへの備え」で説明したとおり、油は、聖書では聖霊を象徴しています。主イエスが神の怒りをお受けになり、押しつぶされて油を絞り出す、聖霊を出すということを暗示しているように思えます。主イエスが地上で宣教されていた間は、人々に聖霊はまだ与えられませんでした。聖霊が与えられるのは、十字架での死、それから三日目に復活、昇天という段階を経てからでした。それは、主イエスが「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(ヨハネ16:7)という御言葉から分かります。

まとめると、このゲツセマネの祈りは、メシアである主イエスの受難であり、肉なる人間の弱さ、祈りの重要性を示されるとともに、神の御心を最優先して神に従順であること、死に対する霊的戦いにおける勝利、天の父なる神の愛、神の栄光を垣間見ることができます。最初の人間であったアダムとエバは、神の「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:17)という御言葉を信じなかったために、死が人間にもたらされました。要するに、神への不信仰と不従順の報いが死ということです。しかし、主イエスが受肉されて人間として地上に来られ、死まで父なる神への信仰を持ったまま従順を貫いたので、死に打ち勝ったのです。主イエスがアダムとエバの堕落を人間として回復されたのです。それを成し遂げたことによって、神と人間がイエス・キリストを通してのみ和解できるようになったのです。イエス・キリストを神の御子、メシア(救い主)であると信じること、その御言葉と御業をも信じて、神の掟を守り、神の御心を実行し、神に従順のまま人生をまっとうすることが救われることになるのです。よって、生きている現段階で、自分は救われているなどと言ってはいけないのです。

中略〜

メシアである御子イエスが受けた受難の結果は、「見るべき面影もなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」(イザヤ書53:2)のとおり、人の目から見たらとても格好の良いものとはいえませんでした。しかし、ゲツセマネでの祈りから十字架までが全人類の罪を償う道を開くことになる神の栄光だったのです。これは、他の誰にも真似できない神の御業です。イエス・キリストが様々な苦難に遭われても、その中でも信仰を決して失わず、神への祈りを大事にし、ひたすら神の御心を実行されていました。それは、天の父なる神の栄光を現すためです。

引用ここまで

 

✨主イエスの偉大なる御業に感謝いたします。

 

🌿新約聖書 ヨハネによる福音書 十六章七節 (参照)   
それでも、わたしは真実をあなた方に言います。
わたしが去って行くことは、あなた方にとって有益となります。何故なら、もし、わたしが去って行かなければ、援助者(聖霊)があなた方に来られることはないが、しかし、もし、わたしが離れたならば、わたしはあなた方に彼(聖霊)を送るようになるからです。

 

主イエス・キリストの慈愛に感謝し、祈りを捧げましょう。

皆さんに平安がありますように。

 

以上