それから朝まで少し眠ることができた恭子は、階下に下りて、居間の戸を開けた。房子は眠っていた。

がたがた大きな音をたてる枕元の戸を開けても、房子は眠っているふりをすることがよくある。いつもと同じだと思っていた。またぁ、起きているんでしょ、と思いながら、

「おかあさん、おはよう!」

と言った。もう一度、大きな声で「おはよう!」

 耳元でもう一度。それで恭子はやっと気づいたのだ。房子が冷たくなっていることに。触って確かめなければ分からないほど、房子は普段眠っている時と、変わらない顔だった。

口を開けているから頬の肉は落ち、顔全体が蝋のようにつるっとしていた。

 

 それから恭子はどうしようもなく泣き続けた。「ごめんね」「ごめんね」と泣きながら謝り続けた。髪の毛がほとんどない頭をなで続けた。

ほんとに苦しかったんだ、死んでしまうくらい苦しかったんだ、と思うと、涙が止まらない。力を振り絞って恭子の名を呼び、戸襖を叩き続けた姿を思い浮かべると、かわいそうでたまらなかった。

 朝までいてあげれば良かった。苦しみを分かち合ってあげたかった。せめて、私の腕の中で息を引き取らせてあげたかった。

あぁ、よりによって、なんで今日という日だったんだろう・・。時を巻き戻してほしい。

 

 早朝の苦しんでいた房子と、冷たくなった房子の姿が、何度も何度も目の前に浮かび上がり、何度も何度も「ごめんね」と嗚咽した。

 房子の顔は、眠っているように穏やかだった。座薬が効いて眠っていき、あの後苦しまずに逝ってしまったのかもしれない。けれど、あの時の別れ方は、どんなに悔やんでも、悔やみきれなかった。

 

 葬儀場がすぐにとれなかったので、房子は一週間ほど家で眠っていた。

 具合が悪くなってきてから、会いにきて、と連絡した幸男は、亡くなった知らせをしてから、やっとやってきて、遺体の前で、「おばあさま、ごめんなさい」と繰り返して、さめざめと泣いた。嘘っぽくて、背中を蹴飛ばしてやりたかった。

 

 晩年の房子に、亡くなった時の喪主の話はしてあった。恭子はこれまで房子の介護を半ば放棄していた幸男に、どうしても喪主をさせたくなかった。葬儀の時だけ主の顔をして出てくることが許せなかった。そのことは、房子も最後には認めていた。認めざるを得なかった。そして、それは、幸男にも伝えてあったはずだ。

 ところが、幸男はいざとなると、メンツが立たないと言って、気が狂ったように暴言を吐いて暴れ出した。

 結局、「房子の命」だった幸男は、メンツのために、房子との最後のお別れである葬儀も欠席したのだ。

 

 

 

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登場人物紹介

 

恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。

卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。

房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。

幸男:房子の長男。恭子の兄。若い頃から問題行動が多かったが、房子に溺愛され、生涯援助され続ける。仕事も長続きせず、結局房子の塾の講師におさまる。

悠一:房子の実弟。房子とかなり歳が離れている。

やすよ:幸男の嫁。人妻だったため、結婚には一波乱あった。房子は気に入らず、ずっと衝突し続ける。

 

 

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