ピグ恋~ピグから始まった最後の恋~ -15ページ目

或る夏の記憶(2)


昭和40年初頭。

戦後の日本経済は高度成長期を迎える。
景気は活発化してきたが、貧困の格差は未だ著しく小松更(コマツサラ)は大学進学を諦め、母と共に家業の大工達に賄(まかない)を作る傍ら近所の電機工場に勤めていた。


「更、おかわり」
「もぅヤっちゃんったら。みんなが揃う前に釜の飯が底をつくわ」
「ふんっそんなことでケチケチしてるからいつまでも嫁にいけないんだ」

小松家は木造2階建ての借家で複数の職人と共に暮らしている。
玄関から入ってすぐの約20畳ほどの場所が食堂だ。
食堂といっても4人掛けのテーブルを4つ並べただけのもので、今は田植えを終えた地方出身の季節労働者も滞在しているため全員揃って食事をすることは難儀だった。


食堂のすぐ隣は小松家の居間となっており、居間の奥が両親の寝室兼仕事部屋と、子供部屋が二つ。小松家専用の場所は1階のそこだけだ。
居間では更の妹と弟が卓袱台で宿題を広げている。
父の庄吉は寄合で出かけていた。

安普請(やすぶしん)の家で、ドタバタと2階から階段を下りてくる足並みが続くとミシミシと家全体が軋む。まだ夕飯を食べていない最後の職人達が食堂に現れた。

「おめぇらもっと気ーつかって歩け。ボロいんだからよ」

2階は30畳ほどで間仕切りもなくだだっぴろい場所に、寄る辺のない職人や中学を卒業したばかりの若い職人に、季節労働者が寝泊まりしている。

ふらりと現れたアキヒトも。


「ヤっさん、またお嬢をからかってんな。お嬢は貰い手に困るどころかアマタという幼馴染の許嫁がいるもんな。世界を飛び回る商社マン!次に日本に帰ってきたら結婚するって専らの噂だ」

若い職人が自分で茶碗にご飯をよそいテーブルに並べられた焼き魚の前に座る。

「あの男なら俺も身を引く。お嬢は結婚して中流階級のご身分になれるんだ」

別の職人が茄子のお新香を悔しそうに噛みしめながら云った。

「ちょっ」


――――


「ちょちょちょ!!!すみません!アキヒトさんに?アマタさんですか?」

どういうわけかご婦人のロマンスに耳を貸すことになったが、「更」という漢字を使った名前の偶然はともかく、登場人物に聞きなれた名前が出てきて困惑する。
しかも幼馴染とか大工とか。

ご婦人は色白の肌に薄く血管を浮かばせた手で顔を覆い照れた様子で「うふふ」と悪戯に笑って
から「退屈?」と反問してきた。


在り得ない。
その年齢からしてネット媒体に触れることすらないであろうご婦人の口から出てくる言葉はつい先日まであたしが執筆していた物語『ピグ恋』を想起させるものだった。

だがしかし、アキトではなくアキヒトで、アマネではなくアマタと微妙に違うのだからと、
あたしは顔を引き攣らせたまま首を横に振る。

それにしても海外を飛び回る商社マンが幼馴染のアマネで、ふらりと現れたという大工がアキトのように聞こえてくる。


昭和40年初頭はまだあたしもアマネも産まれてない時代の話で、アキトでもアマネでもなく、アキヒトにアマタなのだからこれはご婦人の話だと、気持ちの上で線引きをしようとするものの・・・。


「じゃあ、続けるわね」


――――

「ちょっと勝彦やめてよ!からかってるのは勝彦の方じゃない。アマタとはそんな約束してません。勝彦の方こそ八重子ちゃんとどうなってるのよ」

慌てて場を取り成す更に他の若い衆が合いの手を打つ。

「そうそう、今度八重子と007を観に行く約束とりつけたんだぜ!やるなぁ兄弟!」

更は話題が変わったことで内心ホッと息をついてアキヒトの表情を盗み見る。
黙々とご飯を口の中に運ぶ作業を続けるアキヒトの表情は仄かに陰りがあるものの、それはいつものことだった。

「コラ隼人!生意気にベラベラしゃべるな!」


父が寄合に出かける前に、真夏の日差しを受けるだけでも体力を奪われ大変だとボヤいていたが、勝彦や隼人といった若い者の体力は恐ろしいほど回復力が早い。箸を振り回したり、大声を発したり食事時は暑さ寒さも関係なく騒々しい。
勝彦とは年齢が近いこともあり、時折自分が話題に挙げられることに慣れていたがアマタの話になることだけは避けたかった。

彼らの会話を往(い)なし人数分の味噌汁を乗せた盆をテーブルに置く。順番に「どうぞ」と味噌汁椀を差し出していくと、受け取ろうとしたアキヒトの指先と椀に添えた指が触れた。


― 熱い。


それは味噌汁の熱ではなく、胸の内側をじんわりと包み込むような熱だった。


「みんな、違うのよ。ヤっちゃんは更をお嫁に出したくないから言ってるのよ」

調理器具を洗い終えた母の多枝子が割烹着姿のまま、居間で宿題をする妹たちの傍に座りホッと一息ついたように云った。

「また。多枝ちゃんはすぐ見透かすようなことを云うんだ。おい、おまえら宿題終わったか?そろそろ都はるみが出る演歌ショーの時間なんだよ。さよぉ~なら、さよぉなら~好きになった人~いいねぇはるみちゃん。宿題とっとと終わらせてくれよ」

ヤっさん音痴やめてくれよなぁ。飯がまずくなるじゃないか」
「あれ?確か
ヤっさんこの時間はお嬢にジュリーを見せるって言ってたよな」
「そうだ!約束破って都はるみか!大人はズルいなー」
「私はいいから。ヤっちゃん好きなの観て」
「ほら更もこう云ってるんだ。おまえらは風呂に入ってさっさと寝ろ!」

父の片腕と評され、現場で職人たちの差配をしているヤっちゃんこと矢島仁吾は毎夜こうして誰よりも先に食堂に現れ1台しかない小松家のカラーテレビを独占した挙句最後までそこに居るが、実は寄合など忙しく出回る父に代わって若い職人と交流を図り現場を円滑にしているのだと父も母も口をそろえて云っていた。矢島仁吾は更達兄弟にとっても父親のような存在だった。



母は少し休むと今度は20人分の朝ごはんとお弁当の下拵えの為に台所に立っていた。
更も少し休みたかったが、これを終わらせないことには自分の時間など永遠に来ない。
1台の扇風機がまわるだけの蒸し暑さの中、米を研ぎながらこめかみを伝う汗を肩口で拭うと、不意にアキヒトと目があい慌てて視線を釜の中に戻した。

同じ空気を吸い、同じ空間にいると思うだけで胸が苦しくなっていた。

壁掛け時計の振り子がゴーンという低い音を立て6時30分を告げる。
更はいつもに増して米を研ぐ手を速めた。

「ご馳走さーん。じゃあ行ってきます」

若い職人たちは食べ終えた食器を洗い場に持っていくと、歩いて5分の銭湯へ向かうのが常となっている。石鹸などの類はロッカーに預けてあるので首にかけた手ぬぐい一丁といった出で立ちだ。


お隣さんも、その奥の家もみな大工職人を抱える飯場をしており、いわば小さな〝大工村〟といった場所で、更は大勢と寝食を共にする環境で育った。


――――

アマタにアキヒト・・・。

些か引っ掛かりはあるものの、ご婦人の鷹揚な素振りと語調やリズムに引き込まれ観念したように話を聞き始めていた。

「その頃小松さんはお幾つだったんですか?」
「結婚適齢期をとうに過ぎた25の頃よ。色白で気立てもいいってその辺りじゃ評判だったけど、いろいろあってねえ」

25歳のご婦人はその風貌から容易に想像できなかったが、その年齢で家事を手伝い、許嫁がいる背景についてはいつか母から聞いた時代とリンクする。


〝アマタ〟という幼馴染がいて、周りから許嫁と持て囃されながらも・・・

「アキヒトさんに片思いだったんですね」

「うふふ、じゃあ続けるよ」



――――


つづく