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日本の教育を考える,理想の教育,草の根レベルの活動

2012年の1月まで、
僕は教育産業で働いていました。


もともと、腰掛けのつもりで
飛び込んだ業界でしたが、

途中で意識も変わり、自分なりに情熱をもって
取り組んでいた時期もありました。


ですが、次第に、日本の教育制度自体に、
心の中でかなりの疑問符を持ってしまい始め、

最後の数年は、どこか『虚しさ』
覚えながら仕事に向かっていた気がします。



日本の教育制度というのは、

『出題者の用意した答えにたどり着くこと』

をひたすらに訓練される課程になっています。



僕自身のメインの仕事は教室の
マネジメントだったのですが、
時折、授業を担当することもありました。


そうした時に、

問題集やテストにある設問自体に
疑問を感じてしまうことが、

多かったのです。



例えば、英語の問題。

生徒が自分なりに考えた解答が、

Communication的に
問題ないものであっても、


ちょっとした時制のミスや、
問題文で使われているものと違う
単語を使用してしまったりすると、

冷酷に×がついてしまうわけです。



小学校低学年の時点から、

『設問者の意図に合わせて
 同じ答えにたどり着くこと』


をひたすらに刷り込まれるのが、
日本の教育課程です。



こういう教育で育つのは
どういう人間でしょう。


細かいこと・枝葉末端にこだわり、
ミス・失敗を極度に恐れる、
言葉遣いでミスをしたくないので発言しない、
権威に盲目的に従う、
自分の独自の意見を持たない、
他人と違うことを恐れる・・・etc.



ミスをすることで点数を失う
減点法で評価されるので、

他人のミスや落ち度に対しても
恐ろしく不寛容
になります。


僕は自分の趣味もあって、
youtubeなどで人の楽器の演奏動画を
鑑賞するのが好きなんですが、

日本独自の動画投稿サイトの
ニコニコ動画のコメントには、

そういう不寛容な傾向が
ものすごく顕著に現れていますね。


あまり、気分のいいものではないので、
基本的にコメントは消して観ることにしています。



日本がかつて経験した
高度経済成長期の時代とは、

世界的な情勢は大きく変わっています。


こういう教育システムを続ける限り、
グローバルに展開するこれからの世の中で、

学校教育によって国際的に
競争力のある人材を生み出すことは、

ちょっと厳しい気がします・・・


これもまた、国民の『思考停止』
に端を発していることですね。


『教育』に関しては、世間でもいろいろと
議論されているように見えますが、

どれもこれも枝葉末端の
議論に終始しています。


これまで繰り返してきたこと、
その大きな枠組みの中でああでもない、
こうでもない、

と不毛な議論が繰り返されます。


ルールに従うのは得意なのに、
ルール自体に疑問を持ったり、

それを新しく作りだすことは
苦手というわけです。


議論をする人間のほとんどが、
旧来の日本の教育課程で育った人間なので、

当たり前といえば当たり前なのですが、
出口のない迷路に迷い込んだような
状況に見えますね。



世間一般で『教育熱心』と言われる
家庭では、子どもを私立に通わせる、

ということを考えますが、

私立であっても公立であっても、
結局同じ教育課程で同じ目的、

つまり『日本の大学に合格すること』

に向けて教育が行なわれるので、
それほどの差はないように思います。



海外の教育制度に
目を向けてみるとどうでしょう。


オーストラリアの小学校では、

政府で指定された
教科書というものがありません。


授業も、教科ごとに行なうのではなく、

例えば

『テレビのコマーシャルを見てきなさい』

という課題が出されます。


次の日の授業では、

何のためにコマーシャルがあって、
どうやって作られ、
何人の人が関わって予算はいくらで、
利益は、一人の収入はいくら・・・

というふうに計算もしていきます。


ひとつの授業の中で
社会と算数が混ざっているわけです。


教育に関する考え方が日本とは違い、

社会生活に役立つ、実践的なことを
考えるのに重点を置いている、


と言えます。


社会はさまざまなことがつながっていて、
今、学んでいることは区切っては
成り立たない、


という考え方が徹底しているため、

小学生と話をしても社会のしくみを
よく知っていて驚かされるそうです。


学年についても
非常に柔軟な考え方をしています。



年齢(誕生日)で学年が区別される日本とは違い、
オーストラリアでは、特に小学校の段階では
生徒の能力で学年を決定するという考え方があります。



例えば、2年生のある児童が、
算数がどうも不得意だったとします。


2年生終了時期になっても、
算数の習得が不十分であったため

先生と保護者が話し合い、児童にとって
どういう対策がベストであるか検討します。


その結果、算数に関しては、

もう一度2年生の授業を受ける
(つまり算数のみ留年)、

というようなこともあり得ます。


日本では、小学生が留年なんて
させられたら大変!

と思うかもしれませんが、
あちらでは捉え方が違います。


『もう一度2年生ができるなんてラッキー』、

『一度やっているからみんなより
 分かっていることが多いスタートで、

 自信を持って算数の
 授業に臨めるようになる』


とポジティブな考え方をするのです。


日本で『勉強に励む』というと、
問題集をひたすら解いて、

『相手の求めている答えを、
 ミスなく正確に返す』


という訓練をすることにあたります。


これは果たして、
『教育』『学ぶ』ことと言っていいのか?

と思ってしまいますね。



こういう差がどこからくるのかというと、

根本的な『教育観』『教育の目的』
が違うということなんでしょう。


国家において『教育の目的』とは、

どういう国民を増やしていくのか、
国民はどういう人間であるべきなのか?


という『国の意志・戦略』が反映されるべきものです。



『国の意志』

というと他人事っぽく
聞こえてしまうところが、

この国の病根の深いところなんですが、


『国の意志』=『国民一人ひとりの意志』
 =『自分たちの意志』



こういう、自立した責任ある考え方が
必要ということなんでしょうね。



この記事を書いてから数年経ちました。
(記事の元ネタは2011年1月のものです)


書いた当時は教育業界でサラリーマンとして
働きながらも、自分の未来につながる
希望もあまり見えてこず、

悶々としていたことが
文章から読み取れますね(笑)



今現在は、当時より、
社会の在り方に希望を感じています。


当時よりも視野が広がり、この日本にも、
新しい価値観をもち、新しい考え方の
できる素晴らしい人たち、しかも、

若い世代にそういう成功者たちが
たくさんいることも知ったからです。


賢明な人たちが、
日本の教育を今のままにはさせないでしょう。

僕もその中で何かしら
貢献できたらと思いますね^ー^




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