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 孝明天皇は、岩倉具視が毒殺したのか?
 八八卿列参事件により、岩倉具視は辞官落飾のやむなきに至る。岩倉具視は、一八二五年(文政八)に、権中納言・堀川康親(やうちか)の次男として生まれ、岩倉具慶(ともやす)の養子となっている。一八三八年に、従五位下で侍従として出仕し、一八六一年には正四位下となり、右近衛権少将(うこのえごんしょう)を経て、左近衛権中将となる。
 鹿島説では、岩倉具視は幼い日に孝明天皇を女形にして男色遊びをしていたということになっているが、たしかに岩倉は関白・鷹司(たかつかさ)政通に認められて、孝明天皇の侍従となっているのだから、これはありうることである。さらに、鹿島説では、孝明天皇が男色遊びに飽きて女性を求めたため、その心変わりを憎んで、岩倉具視も暗殺の謀議に加わったということだが、これもありうることである(この点については、後に別の角度からも検証する)。
 さて、一八五八年(安政五)、日米修好通商条約への調印をめぐって、国内がまっぷたつに割れたとき、岩倉具視は同志の廷臣八八卿の参列に加わって勅許案改訂を建言し、関白・九条尚忠の幕府委任案を一転させた。この列参事件以降、岩倉具視は難局打開と攘夷の実行を公武合体策に求め、万延元年(一.八六〇)には一時中座していた皇女・和宮の将軍・家茂への降嫁(こうか)を、江戸下向にも同行して積極的に推し進め、朝廷の有力者としての地位を固めた。それらのことにより、岩倉具視は、久我建通(たてみち)、千種有文(ちぐさ ありふみ)、富小路敬直らとともに、〈四奸(かん)〉の一人として、尊王攘夷過激派に命を狙われ始めた。そのため、朝廷としても家族ともども洛中から追放せざるをえなくなり、岩倉具視はついに辞官落飾(官を辞し、貴人が髪をそりおとして出家すること)のやむなきに至った。剃髪し出家した岩倉具視は、友山と称して、霊源寺、西芳寺、岩倉村と居所を転々として逃げ回ったが、めまぐるしい情勢を意識してか、玉松操、大久保利通など多数の志士たちとの接触を欠かすことがなかった。

 重要な貴人の暗殺は、東洋ではごく普通のことである
 尊皇攘夷派が台頭し、岩倉具視の命が狙われ始めたのは、一八六二年(文久二)。その四年後の一八六六年(慶応二)に孝明天皇が急死すると、岩倉具視は明治天皇により勅勘(ちょっかん)(天子のとがめ。勅命による勘当。宥免(ゆうめん)の勅許があるまで、閉門・蟄居(ちっきょ)して謹慎するのが通例であった)が許され、王政復古クーデターで参与となり、明治新政府において、副総裁、大納言、右大臣と、たちどころに権力の中枢に位置するようになっていった。
 孝明天皇が急死するまでは、髪をおろして家族ともども逃げ回っていたのが、明治天皇に代わるやいなや、急激に異例の出世をしているのである。そのため、当時から岩倉具視には、孝明天皇毒殺の疑いがかけられており、いまでも歴史関係などの本に「孝明天皇には毒殺説があり、岩倉に嫌疑がかけられた」と書かれていたりする。
 孝明天皇の急死によって、岩倉具視の境遇が激変したのは事実である。さらに岩倉具視は、明治新政府の中枢に納まるやいなや、明治六年の政変、士族反乱、対朝鮮・台湾問題、〈漸次国家立憲ノ政体〉樹立の詔勅、太政官・大書記官・井上毅を駆使しての明治憲法の基本構想づくり、明治一四年の政変と、クーデターや政変には推進者ないしは協力者として、必ず顔を出すようになる。
 彼が権謀術数の政治家であったことには異論の余地はなく、孝明天皇を毒殺していたとしても、驚くにはあたらない。「保守的な帝によって、おそらく戦争になるだろうということは予期されるはずであった。重要な貴人の死を毒殺に帰するということは、東洋の国々ではごく普通のことである」とは、英国公使パークスの通訳官であったアーネスト・サトウの言葉である(『日本における外交官」)。