先刻大潟村で、減反政策に抗してきた人と従ってきた人とひとしく所得補償をするのは不公平なのではないかという記事で、前者のほうがまじめだったと書いたことにコメントをいただきました。

 半分しかご趣旨がわからないと同時に、わたしの書き方も不明瞭だったと反省しました。

 まじめということがどういうことなのかを考えるべきだということを言いたかったのです。農政の話を書きつつ、違う論点を書き込んでしまっていました。

 書きながらわたしが思い出していたのは、辺見庸さんの講演で聞いたエピソードです。

 731部隊の実験場で、ある“マルタ”が逃げようとした、そうしたら、ある助けを求められた隊員だか”研究者”だったかが、その中国人を、彼の身体で人体実験をしようとしている人たちのほうへ押しやったというものです。その部隊の中ではつかまえた人で人体実験をすることが職務を命令通りに遂行することであり、命令を命令と通りに遂行することを“まじめ”だとすれば、その人はまじめだったことになる。が、人体実験をすることが、まちがっているという倫理を基準にするなら、逃げようとしている人を手伝うことが“まじめ”だということになる。

 食料安全保障という見地からすれば、減反せよという農政がまちがっていたことになる。正しいか間違っているかを度外視して“上”からの命令に従ったことを、単にそのことのゆえに“まじめ”と賞讃していいのか。そのことを問いたかったのです。減反をめぐる態度決定だけでなく。

 原発を造るコンクリートに海砂を混ぜろといわれたときに、その通りにする行為もそう。それをまじめと呼んでいいのか。日本の政治文化は残念ながらそれをもまじめと呼ぶ文化だったのです。

 逆らったら職を失うかもしれない、命をまで失うかもしれない、そのときに逆らわないことを、非難できるかというとそれは、私にはできない。私自身そういう立場にオ枯れれたときにどう振舞うか自信はない。そういう自分を見なくて済むように、状況のほうを変えたいとおもうのです。わたしはエゴイストですから。