「教育」8月号に、山本宏樹さんが「MOVIE(映画)」のコラムで、「人間の壁」の原作と映画を取りあげています。
 
かつては教師を目指す人たちにとっては、「人間の壁」はバイブルのような小説でした。山本さんは、その原作を基につくられた映画についても詳しく触れています。(その詳しいところは「教育」を読んでもらうということで…。)
 
 
 ぼくにとっては“因縁”のある作品なので、個人的なことにも触れながら少し紹介します。
ぼくの生まれ育った地は佐賀です。
 
 
この原作は、「佐賀県教職員組合事件」(通称「佐教組事件」)に関わる経過が舞台となっています。
「佐教組事件」とは、こういう事件でした。
 

検索に移動WIKIPEDIAより

佐教組事件(さきょうそじけん)は、1957年(昭和32年)2月14日から16日の3日間にわたって佐賀県教職員組合が起こした労働争議。財政難のため県が打ち出した大規模人員削減に反対し、組合員が一斉に有給休暇を取得する休暇闘争で対抗した。国家公務員法第98条、地方公務員法第37条で労働争議が禁止されている教員が起こした実質的なストライキな事件で、作家石川達三の小説『人間の壁』のモデルとなったほか、学級編成と教職員定数を明確に定めた法律を制定するきっかけとなった。

 

その中の「大規模人員削減」とは<国の指導のもと策定された財政再建計画には大幅な人件費削減が盛り込まれており、教育現場においては10年間で教職員約7000名の内、2600名を整理するために、45歳以上の職員を全員退職させるほか、養護教員、事務職員を全廃する等といった内容が示された>というトンデモナイ内容でした。
 
「事件」が起きたのはぼくの生まれ育った故郷、佐賀県。更に、小説にも描かれた時はちょうどぼくの子ども時代。小学校の担任の先生たちがこの「事件」の当事者でした。このストライキのあった1957年2月、ぼくは小学校2年生でした。
そういう意味で、ぼくにとっては、この「人間の壁」は特別な小説です。
 
保守性の強い佐賀ですから、政府も、県当局も、佐賀の穏便な教職員ならば、こんな内容でも何とかなるとタカをくくっていたようです。
しかし、あまりの内容に、さすがに佐賀の教師たちも声をあげました。
思い出します。ぼくの小学校低学年の教室の人数を。60人近い子どもが1クラスにいました。それを先生を減らすことで、1学級60人以上にするというのです。考えられますか。
やむにやまれず立ち上がった教師たち。ぼくはいま、そのことを思って、誇りに思います。
 
この作品に出てくる教師たちは、「ぼくの知る先生たち」の造形でした。もちろん、小学校2年生の子どもが事件の全容について知るよしもなく、このストライキも記憶には全くありません。
しかし、この頃、ぼくの父は、敗戦を機に、東京でのエリートの道を棄て、地域で、平和や人々の暮しを守る活動にのめり込んでいました。地域の社会運動に深くかわっていたので、さまざまな人たちが我が家にやってきました。この地域の教師たちも我が家によく出入りしていました。
後に考えると、この運動の打ち合わせなどにぼくの実家が使われていたのかも知れません。
 
そんなこともあって、ぼくの小学校2年生の担任だった「多久龍太郎先生」は、この地域の教職員組合の青年リーダーだったことは、いくらか知っていました。
街中をメーデー行進するときなど、トラックの荷台に乗ってアコーデオンを弾き、歌声を指揮していました。また、まだ広く普及していなかった「線路は続くよどこまでも」の曲を、アメリカの労働歌の歌詞で(まだ子ども用の歌になっていなかったため)教室で教えてくれたりしました。
その後、ずいぶん経って、その多久先生は、数学教育協議会(数教協)の有名な実践家として活躍されていた事をしりました。
 
ぼくが「人間の壁」の映画を観たのは、大学生のときでした。その後小説を読みました。
先生も子どもも、あの頃のぼくや先生たちでした。(ただ、大学生のぼくは教師になるという考えは全く持っていませんでしたが)
 
驚きの「出会い」もありました。
高校を卒業して、ぼくは東京に出てきました。
渋谷区幡ヶ谷のSさんというお宅で下宿生活を始めたばかりの4月末のこと。朝日新聞の日曜日の別刷り特集を見て、驚きました。
「名作の舞台を訪ねる」というような連載企画だったと思いますが、半面くらいに大きな写真が載っており、10人あまりの人の中に、小学校の5年、6年の担任だった「東島万寿雄先生」が写っていました。
作家、石川達三氏が「人間の壁」の舞台を訪ねたということで、佐教組の事務所に、その「事件」当時の役員メンバーが集って、石川氏と写真に収まっていました。
 
東島先生は、「事件」当時、県の組合幹部として活躍していた人(その時に知りました)で、その後、ぼくの担任をしている頃には裁判の被告(これも後で知ったこと)として、しばしば教室を空けることがありましたが、子どもたちは先生がいないことを困ったことだとも思わず、好き勝手に出来ることで喜んでいるような状態でした。
ぼくは、小学5年生から5年間にわたって、母が入院(脊椎カリエス=結核菌が脊椎に入り込む事によって脊椎が冒される病)し、そのために子どもの面会は絶対禁止でした。
小学校高学年から中学時代、当時のぼくは、自分を見失うような感情の中にいました。そのためか、この頃の学校生活の記憶はほとんどありません。自分でも感情に蓋をしていたのかも知れません。
 
この時の石川達三氏は、佐賀で起こった「天山事件」の取材がらみなどを兼ねての訪問だったようです。詳しくはこの記事を見つけました。2006年11月4日の「朝日」の振り返り記事です。穴吹史士さんという元記者が書いた文章です。
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200611040176.html

 

「天山事件」というのは、佐賀平野にそびえる山で起きた殺人事件です。

石川達三の小説「青春の蹉跌」(*蹉跌とはつまづきのこと)のモデルになったとされる1966年12月に起きた事件です。

「妊娠した女子大学生が、交際相手の大学生に天山登山に誘い出されて、殺される。そして…」とまるで「青春の蹉跌」そのもの。それもそのはず、この天山事件こそがモデルだったのだから。

 

実はこの天山事件は驚きの結末を迎えています。それは上記の記事を読んでみてください。

その中に、ぼくがかつて発見した新聞記事のことが取りあげてありました。

 

<「青春の蹉跌」が天山の事件をモデルにしていると聞いたとき、私はもう一つの新聞記事を思い出した。作家が自作に関係した土地を再訪するという朝日新聞の特集である。石川達三が、「人間の壁」の舞台・佐賀を訪れたというのを、確か読んだことがある。

 調べてみると、その紙面は68年4月30日付で、「三月二十六日朝、福岡の宿を出て、車で佐賀市に向かう」と書いてある。作家が天山の事件を知ったのはおそらくその時だったろう。>

 

これだったのだなあ。18歳のぼくが読んだ記事は。(当時貧乏学生だったけれど、「朝日」は自分で購読していました。新聞だけは購読する、そういう時代でした。)

 

なお、この天山事件は、吉田修一の「悪人」の舞台とも重なっていると思っています。長崎ー佐賀ー福岡を舞台にしながら、青年が若い女性を殺してしまう、それも佐賀の背振山の山中でと言う点でも。
 
この「悪人」も映画化されました。妻夫木聡・深津が良かったなあ。
「青春の蹉跌」は荻原健一・桃井かおり主演でしたね。