三木句会ゆかりの仲間たちの会:稲村ケ崎「真白き富士の嶺(根)」
記念慰霊の像について 由比六九郎さんの投稿
稲村ケ崎「真白き富士の嶺(根)」記念慰霊の像について
由比六九郎
鎌倉に住んで半世紀余りが過ぎましたが、海岸を散歩するように
なったのはここ10年足らずの事です。相模湾を照らす壮大な夕焼け
に魅かれました。なかでも、夕日に照らされた茜色の雲と、その
向こうに浮かび上がる富士山という黄金の組み合わせを鑑賞する
となれば、稲村ケ崎からの眺望がベストです。この画角で撮った
写真を友人に送ったところ、「左隅の像は何?」との問い合わせ
が届きました。そう言われてみると、いつも見ているのに気にも
留めていませんでした。ということで調べてみると、これは逗子
開成中学生の七里ガ浜沖海難事故を悼んで作られた哀歌「真白き
富士の嶺(根)」を記念して建てられた慰霊碑であるとのことです。
「真白き富士の根(嶺)」ボート遭難のうた
(七里ガ浜の哀歌)
三角錫子 作詞 インガルス 作曲
一. 真白き富士の根 緑の江の島
仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
捧げまつる 胸と心
(以下六番まで)
ご存知の方も多いかと思いますが、この海難事故の概要は
以下の通りです。
明治43(1910)年1月23日に葉山を出港し、江の島往復を計画
した逗子開成中学の生徒ら12人を乗せたボート「箱根号」が、
帰路七里ガ浜沖で突風に煽られ転覆しました。懸命の救助活動の
甲斐もなく、事故発生から4日後までに全員が遺体で発見され
ました。その中に幼い弟をしっかりと抱いた兄の姿があり、この
兄弟愛は大いなる美談として大々的に報道され、また「真白き
富士の峰(ボート遭難の歌)」にも歌われたことで全国的にも
有名になりました。救助活動の様子を近くの葉山御用邸に滞在中
であった時の皇太子殿下(のちの大正天皇)が視察されたことも
あって、英霊美談として持て囃されたのでした。事故後、大々的
に慰霊祭が執り行われ、神奈川県知事をはじめとして数千人の人々
が参列したとのことです。しかし、それ以後この事故が大きく報じ
られることはなく、この慰霊碑が稲村ケ崎に建てられたのも、事故
後55年を経た昭和39(1964)年になってのことです。この年は
前回の東京オリンピックが開催された年ですので、その一環でと
いうことなのかもしれませんが、50年以上経過してというのは、
どうも事件の大きさの割には不自然のような気がします。そこで
好奇心に駆られて詳しく調べてみると、色々と興味深い事実が
出てきました。
まず、犠牲者は中学生らとあるので全くの子供を想像していた
のですが、旧制の中学であり、年齢的には20歳以上の学生が2人
もいて。子供たちの集団ではなかったということです。じつは
20歳の学生のうちのひとりが記念像のモデルとなった徳田兄弟の
兄であり、弟は逗子高等小学校2年生の15歳でした。また遭難
直後にオールにつかまった状態で人事不肖のまま救助されたものの、
その後絶命した学校きっての泳ぎの名手といわれた木下三郎も20歳、
因みに彼は逗子開成中学一番の美男子として有名であったといいます。
像は事故後50年以上も経って建てられていますが、その間、特に
戦時中に戦意高揚を目的として慰霊碑を建てようなどという機運が
盛り上がらなかったのだろうかと考えると、事故自体をあまり公け
にしたくないという意思が働いていたようにも感じられます。
追悼歌「真白き富士の嶺(根)」は、当時逗子開成校と兄妹関係
にあった鎌倉女学校の数学教員・三角錫子の手になるものですが、
じつは事故のはるか前にアメリカから伝わりプロテスタント教会
で広く唄われていた「われ等が家に帰る時」という聖歌に、彼女が
作った詞をのせたものでした。世間では三角錫子の作詞・作曲の
ように思われていますが、身もふたもない言い方をすれば「替え歌」
のようなものだったわけです。事故の5年後にはレコードが発売され、
何人もの歌手によって唄われたことで、事故の悲劇的なイメージと
ともに三角錫子の名声も全国的に広まりました。また、この歌は
遭難事件直後の慰霊祭に鎌倉女学校生徒によって唄われて以来、
事故後90周年の記念式典で解禁されるまで、逗子開成校では使用が
タブーであったという事実も分かりました。
事故に遭った学生たちの大半は逗子開成中学の寮生でしたが、
事故当日は寮監の教師が不在であることをいいことに外出許可を
取らないまま外出し、使用したボートも葉山にあった艇庫の管理人
を脅かして無許可で持ち出したものでした。また出航の目的自体も、
外洋で海鳥を打ち落として鍋にしようというとんでもないものだった
ようです。事実、家から持ち出した猟銃2丁が見つかっています。
こうしてみると、子供の事故どころか、相当に素行の悪い年かさ
の学生たちによる無謀な企ての末の遭難のようなのです。ただ、
12名もの多くの犠牲者が出たことから学校に対する世間の非難は
相当のもので、特に一度に4名の兄弟を失った徳田兄弟の母親は
半狂乱になり、寮の監督者(寮監)であった三村教諭に取り
すがって非難する姿が目撃されています。三村教諭は、その後数日
して責任を一身にかぶる形で辞任したあと消息が不明になっています。
事故によって大きく人生を変えられた犠牲者といえるかもしれません。
(その後の詳しい消息は寮監の子息である宮内寒彌氏が小説{七里ガ浜}
にまとめています)
この三村と「真白き富士の根」の作詞者三角錫子は婚約中であった
と言われますが、これは形だけのものであったようで、事故後は一切
の交渉がなかったといわれます。余談ですが、三角錫子はその後
いくつかの学校に勤務した後、最終的には常盤松女学校(現トキワ
松学園)を創設して初代の校長になっています。責任を取って退職し、
その後の消息が分からくなった三村教諭に比べて、なかなかに
したたかな女性であったのかもしれません。また極めてゴシップ的
な話ですが、三角は前述の木下三郎と恋仲であり、「真白き富士
の根(嶺)」は彼を偲んで作られたものだといううわさが流れ
ました。当時39歳であった三角と中学生の恋愛?と思ったの
ですが、木下も中学生とはいえ20歳になっていますから、全く
あり得ない話ではないかもしれません。
沈没したボート「箱根号」は、台湾の港で爆発沈没した戦艦
「松島」の救命艇が払い下げられたものでしたが、定員7名のボート
に12名が乗っていました。ただ、船の専門家によると、訓練を
受けた漕ぎ手が全員でオールを操っていればそうそう容易に沈む
ものではないとのことです。このことから、遭難当時海は相当
荒れてはいたものの、ボートは一部の学生のみによって漕がれて
いて、残りの学生は鳥撃ちに夢中になっていてバランスを崩した
のではないか、との説も囁かれました。また学生の1部は酒を飲ん
でいて、そのためもあってか江の島の漁師が必死に止めたにも
かかわらず、それを振り切って出港して遭難したとも言われて
います。もしこれらが事実であれば、海軍との関係が深く、
規律厳格を校是としていた逗子開成校にとっては極めて不名誉
なことで、何としても伏せておきたい、という強い意志が働いた
としても不思議ではありません。
これも余談ではありますが、事故によって人生を変えられたと
思われる人物がもうひとりいました、じつはボートに乗っていた
学生は当初13名いたのですが、そのうちのひとりが往路にひどい
船酔いを起こしたため帰路の乗船は断念して、極楽寺の自宅まで
江ノ電で帰宅していたのです。ひとりだけ難を逃れた形となった
この学生がその後そのまま学業を続けたのか、あるいはどこかに
転校でもしたのかなど、その後の情報がありませんが、いずれに
しても居たたまれない状況に追い込まれたであろうことは想像
できます。
という訳で、小生の好奇心は満たされたのですが、結果として
何とも言えない後味の悪さが残ってしまいました。「真白き富士
の嶺(根)」を聴いて感じる悲哀に満ちた感動も少なからず色褪せ
てしまいました。
事実を掘り下げて真実を追求するのは言うまでもなく大切なこと
です。ただその結果として、事実は時に美しい物語を打ち壊すこと
があるということも覚悟しておく必要があります。
「夜目、遠目、傘のうち」といいますが、綺麗なものにはあまり
近づきすぎない方がよい、たとえそれが真実でなくても綺麗なまま
にそっとしておく方がよいのかもしれないと、少なからず反省した
ところです。
photo: r. yui
時置かず闇を呼び込む冬夕焼 由比六九郎
