-2-(3)間接金融を機能させる上での障害 | 産経新聞を応援する会

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2.日本を幸福にしない資産政策

(3)間接金融を機能させる上での障害

金融検査は「金融秩序の維持」の目的において、金融機関が損失を出さないように指導されているもので、国民全体の利益を目的としたものではありません。「預金者の保護」も目的に入れられていますが、取り繕っているだけでしょう。本音は、国民がどうなろうとも、金融機関の経営さえ安全であればそれで良いという論理です。このような価値観によって、金融機関は守られる一方において、中小企業や個人商店は切り捨てられて来たのです。

このような価値観の転換はBIS規制に始まります。1993年3月、日本でBIS規制が実施されました。BIS規制とは、G10諸国を対象に、「自己資本比率8%を達成できない銀行は、国際業務から事実上の撤退を余儀なくされる」というものです。日本では、国際基準とは別に、独自に、国内業務のみを行う銀行については自己資本比率4%を割り込んではならないという規制を設けました。この規制のせいで国内業務しか行わない銀行でも、収支が悪化すると自己資本比率4%を確保出来なくなるために、貸し渋りや貸し剥がしをやらざるを得なくなりました。また、自己資本比率を高めることが奨励されますので、金融機関はなるべく中小企業や個人商店に融資しないようになっています。

いくらBIS規制が国際ルールになったからと言っても、各国で行われる国内業務専門の金融機関に対する規制については、各国の事情に合わせて、規制内容を決めれば良く、このような厳しいものにする必要はなかったのですが、なぜか、日本では、国内金融機関に対しても事実上信用金庫に至るまで一行のもれもなく厳しい基準が適用されました。事実上というのは、建前上BIS規制そのものの対象となっていなくても、同じ基準が適用されるということです。

これは、竹中平蔵氏をはじめとする構造改革主義者もしくは新自由主義者が、ある種の意図をもって、中小企業と労働者を弱体化させようとする企ての一つではないかと推測します。現に、BIS規制は、日本の長期不況の中、金融機関が間接金融を実行しようとする場合の障害となって、中小企業や個人商店のみならず金融機関自身をも苦しめて来ました。金融機関が担保を査定して、ほとんど間違いなく回収出来ると判断した場合でも、金融庁が干渉し、融資を禁止してしまうのです。これはもう一種の中小企業いじめです。

銀行の自己資本比率は、(自己資本)/(リスクの伴う総貸出高)で求められます。簡単に説明すると、分子の(自己資本)、自社の資本と劣後ローンや有価証券の含み益の45%、分母の(リスクの伴う総貸出高)国債の0%(ノーリスク)、銀行向け融資の50%、企業向け融資の100%、住宅ローンの50%を合計したものです。ただし、市場リスクによる調整が行われます。したがって、国内業務を行う銀行については、企業向け融資を削減し分母を縮小すれば、つまり、貸し渋りや貸し剥がしを行えば、自己資本比率を高めることができるのです。これによって、金融機関は中小企業や個人商店への融資に二の足を踏み、底辺の産業がBIS規制に妨害される事態が起きるのです。

BIS規制は、バーゼルⅠからバーゼルⅢまで、次のように変遷しています。

バーゼルⅠ(BIS規制)1988年公開では、日本では1993年から実施、日本の銀行は自己資本比率を下げるのを回避するため、中小企業などへの与信姿勢の後退をもたらし、貸し剥がしや貸し渋りが多発し、日本の景気低迷を長期化させる一因となりました。 

バーゼルⅡ(新BIS規制)2004年公開では、日本では2006年から実施、自己資本比率の査定がより精緻となり、その結果、株価の変動が敏感に自己資本比率に反映されるようになり、景気の悪い時はますます与信姿勢も悪くなりました。そうして、多くの企業(特に中小企業)が「要注意先」、「破綻懸念先」に転落し、融資が受けられず経営破綻に追い込まれるという悪循環が起きてしまったのです。そして、銀行は、リスクの比重が0%である国債をますます多く購入するようになりました。

バーゼルⅢ(第三番目のBIS規制)2010年公開は、 2012年から段階的に実施され、2019年には全面的に適用されることになっています。銀行の自己資本の質の向上、リスク管理の一段の強化といった観点から 改訂されたことになっています。しかし、すでに、まず基準の適用が現実的に困難であるという問題が指摘されています。日本の場合、国内銀行において協議の中核的自己資本について7%の基準を満たす銀行は全体の7割であり、最低水準の4.5%を下回った銀行が5%あるため基準をみたすために増資が必要となり、資本を貯め込み、より過酷な貸し渋りにつながる可能性があると言われています。ますます細かくなり、ますます金融機関を締め付けているわけです。過激な間接金融のリスク管理は中小企業や個人商店の経済活動を妨害しますが、その典型がBIS規制です。

このBIS規制に基づき、1999年7月から金融機関管理行政の中心的役割を担っているものに、金融検査マニュアルというものがあります。このマニュアルは金融監督庁傘下のプロジェクトチーム、金融検査マニュアル検討委員会により作成されました。チームの中心的役割を担ったのは、後に「竹中チームのエンジン」と言われた、KPMGフィナンシャル代表の木村剛です。金融庁は日本の全ての金融機関に自己資本比率を守らせるため、金融検査マニュアルをもって指導します。この「金融検査マニュアル」が、いくら日銀が金融緩和を行っても、中小企業へ貸し出しが増えない原因の一つとなっているのです。(※もう一つの理由は「資産デフレ」です。)

BIS規制は銀行だけで、信用金庫には適用されないことになっていますが、「金融検査マニュアル」は信用金庫にも適用され、同様の金融検査を受けていますから、信用金庫も、銀行と同様に、BIS規制を受けているも同然です。

その金融庁検査では、経営管理体制をはじめ様々な内容を検査するのですが、産業金融において重要な項目は「資産査定管理体制」です。銀行がリスクを伴う貸出金等の自社資産の自己査定や、それに査定に基づく貸倒引当金が正しく行われているかどうかを、金融庁はチェックするのです。自己査定といっても、金融庁がそれを検査して、悪ければ業務停止を含むペナルティーをあたえるのですから、結局は厳罰主義の他律査定です。金融機関の自主性が介在する余地は有り得ません。これを称して、金融機関の官僚化と呼ぶ人もいます。

金融検査マニュアルによると、かつて産業金融において頻繁に行われていた融資までが不良債権と見なされます。例えば、貸出条件緩和債権といって、返済年数が延長されるような条件変更や借り替え融資を行うと、たちまち要管理債権となり、貸倒引当金が発生し、金融機関が自己資本比率が下がってしまうようになっているのです。

ですから、銀行は条件変更に応じて企業を助けることが出来ず、その企業を見殺しにするのです。これは、考えるとオカシナことで、条件変更や借替融資を行うと企業の生存確率は高まるのですから、貸倒引当金を発生させる必然性はないはずなのですが、金融検査マニュアルの検査基準から、このような計算が行われるのです。これは、竹中平蔵の、救済融資を禁止してゾンビ企業を潰路線に添ったものと言えますしかし、さすがに、中小企業の資金繰りの悪化が限界を超えるようになって、2006年にゾンビ企業絶滅主義者の竹中平蔵が政界から去ると、2009年に時限立法として中小企業金融円滑化法が施行され、中小企業への融資は若干緩和されました。

竹中平蔵は、ゾンビ企業を潰していけば、優良な企業だけが残り、労働者はゾンビ企業から優良企業に再雇用されるというのですが、優良企業は労働者を使い捨てにしています。「ゾンビ企業」が潰れると、雇用のみならず、技術も伝統も失われます。「ゾンビ企業」がデフレ不況の中で経営困難に陥っているとはいっても、将来景気が良くなった時に日本や国民にとって必要でない企業と誰が言えるのでしょうか。また、ゾンビ企業を潰して増えた失業者が、そんなに簡単に就職できるのでしょうか。むしろ、このデフレ不況下で生き残った優良企業は、無駄な人員をリストラして利益を上げて来たの

救済融資によって、貸付を受けた企業はこれから頑張って生存していくのであって、金融機関が融資したということは、その銀行は生存する可能性が高い、または債権を回収出来ると見たと言うことです。それなら、その金融機関の自主的な判断を尊重すべきなのです。ましてや、その結果が悪いほうに出ると決まったわけではなく、銀行に実際に赤字が発生しているわけでもありません。この赤字は制度上で発生しただけであり、いうなれば実体経済ではありません。今日の日本経済は実体経済ではない机上の規制に支配されているわけです。何らかの勢力による妨害としか思われません。

実体経済においては、赤字の企業に貸し付けても、企業は立派に再生し、金融機関に立派に利益をもたらすことは多いのです。そういう理由から、以前の日本の銀行は、赤字企業でも銀行独自の判断から融資することは多々ありました。銀行の自主性を認めてやりさえすれば、日本の銀行は、町工場や個人商店を汗だくになって訪問しながら、けっこう企業の生存確率を見抜く能力があり優秀だったのです。逆に、制度と言うのは、人間性のない机上のマニュアルだけで、いうなれば数字だけで判断するようになっていますから、日本の銀行が本来持っていた「勘」を身動きが取れないほど拘束しているのです。

このほかにも、決算書の貸借対照表における債務超過や、損益計算書における損失、累積損失、などが、貸倒引当金を積まなければならない理由になります。貸倒引当金を積めば、金融機関の帳簿上は赤字が増えます。金融検査に拘束されている金融機関としては、金利を稼ぐと言うメリットよりも、生存に関わる事態が発生します。「金融検査マニュアル」に生殺与奪権を握られていては、中小企業に融資して金利で稼ぐなどというささやかなメリットなど吹き飛んでしまうのです。

これまでの日本の金融機関の姿勢は、中小企業や国民と共に生きていこうというものでした。多少のリスクを中小企業と分かち合うことで、地域の中小企業を育成して、お金を借りてもらい、少々の金利をもらって生きていこうというスタンスだったのです。まことに健全な姿勢を持っていたのです。また、こうした土壌が、日本の産業の強みにもなっていたのです。

ところが、金融検査が長年続けられたことで、現在、金融機関は、中小企業や個人商店への産業金融をあきらめ、国債ばかり買って、投資信託などのマネーゲームに参加することで自分さえ金が稼げれば良いという意識に変えさせられていますしかし本来、金融機関は果敢に地元経済と運命を共にするほどのリスクを負って産業や国民経済の資金の循環を担当する重要な役割を持つものでした。また、そうことでしか、金融機関も生きられなかったわけです。

ふたたび、町工場や個人商店を汗だくになって回りながら、地域経済に貢献する銀行員が復活がしなければならないと思います。それが日本らしい金融というものです。