近々、第三版が出るとの事。
それも自らの蔵書として購入したい。
宇賀部神社の存在。
故小野田寛郎氏の実家が宇賀部神社。
(小野田氏は終戦後も30年間フィリピンのルバング島で潜伏された方です。)
そして、宇賀部神社にひっそりと設置されている名草戸畔の小さな石碑。
何の脈絡も無かった、一つ一つの小さな点と点がこの書によって一つの線になり、自らの魂が「天」と繋がる感覚を体験出来るのではないでしょうか。
この書で明かされていますが、小野田氏口伝では、名草戸畔は小野田一族の先祖であり、元々は大分県辺りからこちらに移住してきたとの事。
小生が辿り着いた結論は、
神社とは人間の集団毎に信仰されてきた氏神や縄文時代から続く自然崇拝が混然一体となったもの、そこには信ずるに足る理由や根拠としての聖書的なものや哲学的な経典の様な要素は排除されています。
だって信仰ってそもそもその様なものでしょ…と縄文時代の人々に嗜められそうな気がします。
仏教の伝来によって、信仰への理由付け(経典に書かれている事は、何故信じるに足るのか?の理由付けだと解釈しています。)が行われました。
現在でも人間が何の価値も無いものに価値を見出し、それが人間社会の発達を促している理解しやすい例えがあります。
それが貨幣経済です。
紙切れにインク代、印刷費用込みで一万円札は本来の価値は19円しかない。
この紙切れを紙切れだからと言って、トイレットペーパーにしたり、バーベキューの種火で燃やしたりしません。
人間の本来持っているこの「認知構造」が「神」を創造しています。
先祖が帰って来る事にして、亡くなった方々逢えたと思えるのが、お盆です。
本来、目には見えませんが、あるものとみなしてるもの…会社の法人、国もそうだと思います。
日本の国の事を悪く言われたら自分が悪く言われたみたいに思う感覚。
これら全ては、人間が神を信じる事が出来る能力と深く関わっていると思うんです。
ここまで読まれた方は、お気づきかも知れませんが。
小生は神という存在は、人類が創造した最高の発明品だと思っています。
これは昨今のカルトや日本が国家神道に猛進した歴史の反省からでもあります。
これらの事実は人間に本来備わっている、認知構造について、人間自身が余りに無知だったが為に繰り返し引き起こされた事象なのではないかという結論に至ったものです。
一方で信仰は必要だとも思います。
何故なら、人間は神を創造できる生命体だからです。
人間は自らなりたいと念じたものに成れる事が出来る存在です。
空を飛びたいと思った人類(リリーエンタール)は今や宇宙まで行く事が出来るようになりました。
医療技術や科学技術の躍進は、人類を正に「神」
に近づけています。
太古の人々にとって神の領域であったものが、今やそうでは無い事に枚挙に暇がありません。
神は人類がそうありたいと願う存在であり憧れ。
人類が想像し創造したものは、今まで全て人類は自らの力で叶えて来たのではないでしょうか。
名草戸畔..彼女を想う気持ちが強過ぎて、かなりクセのあるブログになってしまいました。
小生の思考の放浪はまだまだ旅路の途中であり、一年後は違う考えかも知れませんが…(笑)