師走の海上で手にした櫂で激しく水を掛け合う男たち。
全国に三千余ある事代主神系えびす宮の総本社「美保神社」で、毎年12月3日に氏子たちが行う「諸手船神事」は、大和朝廷による出雲平定の過程の物語「国譲り神話」を再現したもの。
『古事記』では無血平和交渉、『日本書紀』では徹底的な討伐となっていて、その表現は書物によって異なるが、「諸手船神事」は『古事記』神話に基づく。
根の国から須佐乃男命(スサノオ)の娘・須勢理毘売命(スセリビヒメ)を連れ、地上へと戻った大国主神(オオクニヌシノカミ)は、多くの神々と協力して立派な国を造り上げ、葦原中国の偉大なる王となる。そこへ高天原に住む天照大御神(アマテラスオオミカミ)が、本来この国は我が子が治めるべきものであると主張し、速やかに国を明け渡すよう使者を寄越して通告。
最初に遣わした天穂日命(あめのほひのみこと)は、三年経っても音沙汰なし。次に遣わした天稚彦(あめのわかひこ)に至っては、大国主神の娘・下照姫(したてるひめ)と結婚し八年たっても帰らず。
それほどに出雲の国は住み好き地なり。
埒が明かないと踏んだ天照は、高天原の最終兵器・建御雷之男神(たけみかずちのかみ)を送り込む。 建御雷は稲佐の浜に降り立つと剣を抜いて大国主に国譲りを詰め寄った。
その様子から「稲佐の浜」の「いなさ」は「否(NO)・諾(YES)」に因むという説がある。
建御雷に詰め寄られた大国主は「私の一存では決められません。我が子、事代主神(ことしろぬしのかみ)に聴いてください。」と返答した。
美保関で釣りをしていた事代主のもとに大国主の使者が熊野諸手船(くまののもろたぶね)に乗って遣わされた。
諸手船神事はこの場面を再現している。
大国主の使者に対して事代主は「この国は高天原に譲るのがよろしいでしょう」と国譲りを承諾した後、船を踏み傾けて柏手を打ち、船を青柴垣(あおふしがき)に変えるとその中に身を隠した(※この故事に因んで、毎年4月7日美保神社で青柴垣神事が執り行われる)。
神事で使われる二隻の諸手船は、もみの大木を刳り抜き部材を左右に継ぎ複材化した刳舟。
神籤で選ばれた船の舳先に立てる3つ股のマッカという剣(木鉾)を持つ役の真剣持ち一人、舵取り役で高天原からの使者に擬する大櫂一人、大櫂の補佐役大脇一人、漕ぎ手(水夫)役の檝子(かこ)六人の合計九人ずつが諸手船に乗って漕ぎ出して港内を巡る。
客社(マロウドシャ)を拝する位置へと進んだ後、宮灘へと戻る際に「ヤアヤア」という勇ましい掛け声を上げながら激しい競争を行ない着岸とともに互いに激しく水を掛け合う。
この様が三度繰り返された後、應答祝言の儀が始まる。
使いの神に擬した大櫂役は櫂を横に置き、舳先に挿した「マッカ」と呼ばれる飾りを美保神社に奉げる。
事代主神に擬した幄舎内の宮司に対して「タカー三度」と叫ぶ。 続いて檝子を含む一同は「乗って参って候」と大声で唱える。
これに応じて宮司は「天長地久、国家安泰、タカー三度、めでとう候」と祝言を述べる。
続いて全員が柏手を打ち、礼拝。
海上の儀が終わると宮司以下帰殿し、前日の宵祭に供進したお供えを下げて閉扉。儀式をはさんだのち、会所で直会式(真魚箸式)を済ませ神事の幕を閉じる。
例年、神事当日はみぞれ交じりの雨が降ったり、竜巻が発生するほど海上が荒れたりすることが多い。
昨日、激しい雨は朝方には上がり、日中穏やかな日和で、神事が終わるころには島根半島の東端に虹が架かった。
めでとう候。
◆参考資料
「神々のいるまち美保関」 松江観光協会美保関支部 発行
「週刊神社紀行13 美保神社」 学習研究社 発行