百貨店は、呉服の取り扱いに端を発した三越(1673・延宝元年)や大丸(1717・享保二年)、古着・木綿商に端を発した高島屋(1831・天保二年)などの江戸時代から続く呉服系と、鉄道の発達に伴う乗降客の利便を図るために開店した阪急(1929・昭和四年)や東急(1934・昭和九年)などの昭和初期以降に創業した電鉄系に大別されます。他に月賦販売や家具販売に端を発した丸井(1931・昭和六年)や江戸末期に小間物商に端を発した天満屋(1829・文政一二年)などの例もあります。

 

1902(明治三五)年、境港~御来屋の鉄道開通に伴い、町の中心が南へと移動する少し前の1890年前後(明治二〇年代)、内町・天神町あたりから四日市町に移転し、舶来品や雑貨、ゴム製品などを取り扱った米子初の百貨店・川口商店(乳母車店)。

 

 

「商都米子」と呼ばれるに相応しい、先取性やモダンな雰囲気を感じる当時の店舗外観の写真と現在を比較してみると、頭上はアーケードで覆われ、外壁も簡素な雰囲気になっています。

 

 

現在はクラシカルなファサードをパネルで覆った看板建築ですが、パネルを外せば元々の外観が顔を表すということです。

 

 

↓このようなイメージ

 

 

建物の配置および構造は独特で、米子には少ない店と住居が別棟の「表屋造」。明治期にこの建物を取得した川口家が、営業を行うため1階のかなりの部分を改造していますが、箱階段を上がった2階はあまり手を加えられておらず、当時の様子を知ることができます。

 

 

左右の部屋が全く別物。二棟の建物をつないでいることがよく解りました。

 

かつて中庭があって噴水が設置され、ぐるりと廻るメザニン(中二階)から鑑賞できました。

 

 

バックヤードにメザニンの遺構が残っており、当時の店内が想像できます。

 

 

↑このようなイメージ。

 

江戸時代の荒尾治世下、米子町政のための町会所が置かれたのが当地だと考えられ、その根拠となる「町御會所」や「御家老」、「町奉行」と書かれた棟札が伝わっています。

 

 

町会所を指揮する町年寄は中期以降大体3人が務め、月交代で当所に出仕して、目代・書記役・伝達役・町廻り役などを配下に置いて執務を行ないました。町年寄は、町民の戸籍(生死・出入・縁組・相続等)に関わる一切の許認可、宗門改めや奉公人改め、営業上に関わること、藩の命令の下達、伺い書・願書・届書の取り扱い、公事訴訟の取り捌き、町火消の指揮監督など、町政一般を司りました。

 

1907(明治四〇)年、嘉仁皇太子(のちの大正天皇)の山陰行啓に際して、宿として建設された鳳翔閣(ほうしょうかく)内部の写真が伝わっています。

 

 

同閣は、山陰のレオナルドダヴィンチとも呼ばれる宮大工・富次精斎(とみつぐせいさい)によるものです。

 

また同年、同閣の南側に建設された公会堂に絨毯を納品しています。

 

 

1912(明治四五)年に開催された「山陰鐵道開通記念全國特産品博覧會」の様子。

 

 

当博覧會に出展し、成功へと導いた尽力が認められ、元勲大隈重信候より感謝状が贈られています。

 

店の奥に飾られている看板には、モダンなピエロと力強い大勉強の文字。隆盛を極めた商店街のにぎわいを感じさせる貴重な史料。

 

 

1912(明治四五)年に開催された「山陰鐵道開通記念全國特産品博覧會」の様子。

 

 

当博覧會に出展し成功へと導いた尽力が認められ、元勲大隈重信候より感謝状が贈られています。

 

百貨店の顔といえば1階に展開される化粧品ですが、同店は米子初の百貨店に相応しく、資生堂の山陰で初となる代理店です。

 

現在の同店は、乳母車(ベビーカー)やシルバーカーをはじめ、杖、おまる、傘、雨衣(合羽)、運動靴、スリッパ、学校指定用品など幅広く取り扱っており、米子市民なら学童・学生時代に必ずお世話になっている老舗です。

 

 

店舗裏、旧加茂川沿いの駐車場は乳母車専用!?

 

 

料金徴収役はリラックマ!?

 

 

奥様のご厚意により、住居部分も案内していただき。現役で使用されている貴重な色付きガラスをなど拝見いたしました。

 

◆参考文献

『米子のふるさと散歩』 「米子のふるさと散歩」編さん委員会 著 米子山陰歴史館運営委員会 編 米子錦ライオンズクラブ 発行

資料「米子下町シリーズ2 米子十八町を巡る ~江戸後期(天保~嘉永)の米子~」