米子の商家の中庭に住む逆立ちした魚。

 

 

鯱は波を起こし、雨を呼ぶ霊獣。元来、火難除けの呪(まじな)いとして、寺院堂塔内の厨子等を飾っていたものを織田信長が安土城天守の装飾に採り入れたことから普及したとされています。

 

それが、なぜ商家の中庭に?

 

幕末の1852(嘉永五)年、米子の豪商鹿島本家・鹿島分家両家が、米子城の改修費用一万両(現在の貨幣価値で約8千3百万円※)と労力を提供したことに対する礼として、米子城小天守の屋根に置かれていた鯱を、鹿島両家に荒尾家第十代荒尾但馬成裕が下賜したものです。

 

 

鹿島氏は、寛永年間(1624~44年)頃より備前国(岡山県東南部)より米子に移り住んだと伝わる。四代目治郎左衛門が1759(宝暦九)年米屋を開業、次いで大豆、綿実なども扱い、醤油、質商にまで手を広げ、次第に蓄財し近郊の農地も所有するに至る。鹿島一族は、西倉吉町、岩倉町、尾高町などにも分かれ、いずれも商売で成功。1808(文化五)年、鹿島本家は御用金百貫文(現在の貨幣価値で約1億円)を納入。それ以降、藩への献金をはじめとして米子城修理費や木綿座繰出金、為替座元金なだ数万両を拠出。それらの功により米子荒尾氏から近習格を与えられている。

 

 

一字で鯱(しゃちほこ)と読み、あるいは二字で鯱鉾とも書かれます。また、、『和漢三才図絵』では、体が魚で頭が虎の姿をしていることから魚虎(しゃちほこ)と表記されています。

 

 

米子城の鯱

 

米子城には大小二つの天守閣があり、その双方に鯱が置かれていた。大天守閣の鯱は明治初年(十年・十一年頃)城が解体されたとき、藩主池田氏に引き取られ東京の私邸に据えられていたが関東大震災でこわれたと伝えられる、小天守閣(四重櫓)は今から百五十七年前の嘉永五年(一八五二)痛みがひどく、本家鹿島・分家鹿島両家の拠出金により修理が行われた際、古い鯱は記念として両鹿島家に渡り、それぞれぞれに保管されて現在にいたっている。なお米子城の築城は天正十九年(一五九一)より工事にかかり、慶長六年(一六〇一)ほぼ完成した。鹿島家にある鯱は四〇〇年以上前に製作されたもので、今から百五十七年前から鹿島家に伝わっている。新しい鯱は瓦師松原仁左衛門氏により制作されたが、嘉永五年製と六年製の二組がある。嘉永五年製は試作品と思われるが、城の解体時に業者山本新助から村上家が譲り受け昭和十五年、その内の一点が山陰歴史館に寄贈された。嘉永六年製は城の解体時に、その頃米子城の所有者の武士団(新国隊の幹部【因幡二十士】が藩主池田氏より払い下げを受ける)の一人であった伊吹市太郎が義方小学校初代校長を勤めており、新設する義方小学校の屋根にあげるために引き取った、現在も同行で大切に保管されている。(平成二十一年作成)

 

※「米子城の鯱」説明書きより全文引用

 

 

なお、米子自動車道米子インターチェンジ近くに立地する「お菓子の壽城」は、米子城天守をモデルに建造されたもので、 高さ27m(実物大)、総工費24億円。

 

 

また、鯱に加え、成裕直筆の俳句(軸や短冊)なども合わせて下賜されています。

 

 

鹿島本家に174年前から伝わる軸(普段は非公開)。

 

大山に 

 

雨はあずけて 

 

さつき晴れ

 

城主の鹿島家に対する気の使いようが分かる興味深い資料です。

 

※江戸時代の一両のおおよその貨幣価値

江戸初期・・・約10万円

江戸中~後期・・・約4~6万円

幕末・・・約4千円~1万円

 

◆参考文献

資料「米子下町シリーズ2 米子十八町を巡る ~江戸後期(天保~嘉永)の米子~」